絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

マンガを批評する前に、四つの質問。

マンガ進化論に戻って来たぜ。

はじめに。四つの質問について。

 動物行動学の入門書を読むと、ニコ・ティンバーゲンの「四つの質問」というのがよく出てくる。これはティンバーゲンの同僚だったローレンツが「本能」というのを発見したときに、ほかの学者から「本能があるって証拠見せてみろよう」と言われているのを見て考えだしたものなんだそうだ。わかりやすく書くと、こう。

至近要因:具体的な理由は何か? 人間が喋るのは、脳から信号が出て、肺から息が出るのと同時に声帯が動くからですよ、いったようなこと。解剖したり、実験すればわかること。
発達要因:その機能はどう成長したか? 人間が喋るには、脳の喋りに関する部分が発達するだけではなくて、声帯や舌をうまくうごかせるようになるからですよ、といったこと。観察すればわかること。
究極要因:その機能が生まれたのはなぜ? その機能はどう適応的だったのか、ってこと。化石や類縁種の遺伝子の残る痕跡やらを調べたり、納得できる理由を考え出したりする。
系統進化要因:上の段で質問したことが、じっさいの進化上では、どう受け継がれてきたか、ってこと。これも化石を見たり考えたりする(ここで「進化」って使ってるから上のが究極になっちゃうんだよなあ。系統要因でいいじゃんねえ。)。

 この四つの質問に答えられたら、それは証拠と呼んでもいいんじゃないか、そうティンバーゲンは考えた。
 動物行動学の面白いところは、今どき全部のことについて考えなきゃいけない、ってことだ。ふつう学問というのは、それぞれの分野で調べなきゃいけないことが膨大にある。だけど動物行動学のひとは、経済学や量子力学まで勉強しなきゃいけない。だって動物の行動には、それらが関わってくるかもしれないから。こうして、ティンバーゲンの四つの質問は、さまざまなジャンルで検証されたことを寄せ集め、ひとつの質問に対するたくさんの答えを出す。鳥がさえずるのはなぜか。性別がわかれているのはどうしてか。
 それで、おれは思ったのだ。マンガを面白く感じるのは、なぜか。
 そして、至近要因でつまづいた。マンガは他ジャンルより深く感情移入できるメディアだ、そのために技法は発達した。それは、わかる。知りたいのは、なぜそう感じるのか、ということだ。コマ割りのサイズで感じる圧迫、何でコマが狭いと圧迫感をおぼえるんだ。優雅な視線誘導でキャラクターの立場が明確になる。なんでだ。感情を記号で表現するとわかりやすい。どうしてわかりやすいんだ。
 なぜ、人間は、紙に配置された絵を見て笑ったり泣いたりするのか。事実はわかっても、理由はわからなかった。
 ここに面白い記事がある。マンガ批評家の伊藤剛が1999年の『ビンボー漫画体系』で発表した疑問だ。

画面に何が描かれているか、あるいは、どういうキャラクターのどういう物語が描かれているかという要素を取り払った場合、「ビンボー」はどこに現れるだろうか。それは、画面を構成している要素のもっとも基本にある「描線」そのものに現れる。
伊藤剛 「マンガは変わる」より「ビンボー漫画のペンタッチ(描線)を解説する」

 このあと伊藤はじっさいに絵を並べ、光学的リアリズムと肉体的リアリズムという二項をつくる。それはとても刺激的で、面白い。だけど、記事は量の問題もあってか、足早に結論を述べて終わる。

もう、横断できないところまで来ている。

 視線誘導、同一化技法、漫譜、マンガを批評するためにいろんな言葉が生まれた。でも、どれもこれも事実を記述しているだけだ。こうすると、こう見えるでしょう。確かにそう見える。でも何で? べつに、マンガ研究を仕事にしているひとがちゃんとやってない、と言ってるわけじゃない。すさまじい研鑽と資料との戦い、そして面白い発想。逆に言えば、ちゃんと書きたいことも全部書けない状況って大変だろうなあ、と思う。
 だってマンガについて書こうとしたら「政治と切り離すのか」って言われるんだぜ。

 大塚はまさに技術を漂白して中立化を装う態度そのものを問題にしているのに、それを問題視することを夏目は「イデオロギー的な読み取り」だといってするりと抜けてしまい、伊藤の理論を「表現の水準での話に踏みとどまっている」がゆえに「より開かれて」いる、というまさしく大塚が問題にしていることそのものを口にしている。批判されている当のロジックで返すという、「かみあわなさ」だ。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/japanimation.html

 なに言ってやがる、いいか、マンガとは、あたらしい表現形だ。それを分析して考えるということは、人間の「意識」について考えをめぐらせるのと同じ、生物学的な問題だ。自分がどんな信念を持っているか、信仰、言語、そんなものは一切関係ないのだ。と思って読んでいくと、なんだか違う話が出てくる。

 「矛盾なく接続しうる」ものなのに、夏目はどうも純技術化・政治的漂白を企図しているのではないか、とぼくはいぶかったのだ。伊藤自身、「ユリイカ」対談において夏目のこの本をあげながら「『表現論』は社会の現実から離れて表現のなかへ沈潜していく態度であるととらえられがちになった」と述べているのであるから、ぼくがそのような警戒をみせたとしてそう的外れなものではないと思う。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/eureka.html

 うーん、ちょっと違う、そうじゃない、的外れどころじゃなくて、その警戒は大正解なんじゃないか。そこにあるのはもっとキナ臭いたくらみだ。夏目がほんとうに「純技術化・政治的漂白」を狙っているのなら、批評全般にわたってその態度は貫かれるべきだが、映画『300』に対してこんな感想を書いているようでは、それもどうやら怪しい。

シリアスで重く作られているので、単純なお話とモティーフが「自由と正義と勇気」ではなくて、僕にはほとんど「愚かさと傲慢と殺戮」にしか見えなかった。最後まで不快な印象で、もっと率直にいうと、ブッシュの妄想を見せられた感じがする。まぁ個人的な印象だけど、僕にとってはデキがどうこういう以前に凄くイヤな映画だった。
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2007/11/post_67b8.html

 映画について、政治的な立場をあきらかにしつつ印象批評を書いてしまっては、マンガだけを「漂白」しようと企んでいる、と言われても仕方がないだろう。夏目房之介はきっと、自分の気づいた素晴らしいことを自分の政治に従属させてしまったのだ。あーあ。これを落語用語で半鐘と言います。
 話が横道にそれた。
 さあ、マンガ批評に四つの質問を持ち込もう。そうすれば、なぜ彼らの話がかみ合わないのかがよくかるだろう。政治的な影響は、どの質問に対する答えなのか。至近要因ではない、発達要因でもないだろう。これは歴史の浅いマンガにとっては、進化要因に関連する問題かもしれない。発達要因は一つのマンガが生まれてから終わりを迎えるまでを検証すれば見えてくるかもしれない。系統進化要因は歴史をたどることでたくさんのマンガ史研究家が追っている。
 それらを衝突させ、どっちの読みが正しいと言い争うことに何の意味があるだろう。
 考えなければならない、いま向かうべき敵は何か、人間か、それともまんがのおばけか。

まだ足が二本ちぎれただけだぞかかってこい!! 使い魔達を出せ!!体を変化させろ!!足を再構築して立ち上がれ!!銃をひろって反撃しろ!! さあ夜はこれからだ!!お楽しみはこれからだ!!早く!早く!早く!早く!早く!早く!早く!
ヘルシング』2巻より

 つまり、お前には覚悟があるのか、ということを延々書いているのである。
 なんだか今回は引用ばかりだけど、世の中には己の哲学だけでは語り得ないものがあるのだよ、ってことでひとつ。

内戦はそれぞれの民族主義ゆえに起こったわけではない。問題はむしろ彼らが共通に抱いていたジェノサイドへの恐怖と被害者意識だった。民族主義のイデオローグたちはこぞって自民族こそが歴史的に被害者だったと主張した。セルビア人もクロアチア人もボスニア人(ムスリム)も。被害者意識から生まれるジェノサイドへの恐怖から、彼らは他民族を迫害したのである。
映画評論家緊張日記 ボスニア内戦

 他人事ではねえのだ。
 
 

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