絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

マンガの境界線、マンガは境界線。

裸で往来へ。


 アルキメデスの有名なエピソードで、お風呂から飛び出して往来を走った、ってのがある。有名な数学者が裸で走る、ってのはたいそう面白いらしくて、Wikipediaでは、こういう実在の人物に関しての面白おかしいエピソードには「要出典」ってタグがつくんだけど、ついてない。まあそれにしたって、いくらすごい発見をしたからって、往来まで走って出ることはないだろう。
「ヘウレーカ!ヘウレーカ!」ぷらんぷらん。
 まるで、マンガだ。

感覚のズレ、言葉のズレ。

 なにかの出来事を見て「まるでマンガだ」ってたとえるとき、おれたちはそれをほめ言葉としては使わない。どちらかといえばバカにしているとき、少なくともその出来事で号泣きしたり本気で怒ったりはしていないときに、おれたちは「まるでマンガだ」と感想を言う。
 でも、変な話じゃないか。だっておれたちはふだんマンガを読んで号泣したり本気で怒ったり感動してるっていうのに。どうして現実の出来事がマンガみたいだと、途端にそれは嘘くさくて薄っぺらで、ふっと息が抜けるみたいな笑いを生むものになるんだろう。
 アニメの実写版を見て、オタクな連中はいっつも文句を言うね。おれも言う、だってカッコ悪いもんな。スパイダーマンバットマンはあんなにかっこよくて感動できるのに*1、どうして日本の実写版はどれもこれも……うーん、これ、おかしくないか。だってオタクじゃないひとはキャシャーンを見てかっこいいと感じたり、キューティーハニーを見て面白いと感じたり、スシ王子を見て感動してるじゃないか。何でオタクは文句ばっかり言うのさ、まったく。

どいつもこいつもおんなじだ。

 この前、アメリカから日本にやってきたオタクのひとたちとお話をする機会があった。初めて見たアニメはなんですか?好きな特撮は?だいたいみんな同じくらいの世代で、言葉の壁はそりゃ少しはあったけれども、とにかく楽しくオタク談義ができた。そこでわかったのは、彼らはみんなアメリカのアニメやマンガはダセー」って思っている、ってことだった。これは衝撃だった、なぜならおれはアメリカ版の「ONE PIECE」のOPを見て「かっこいいなあ」と思っていたからだ。ところが彼らはあれを見て「どうして日本のクールなOPをダサい登場人物の説明で台無しにしちゃうんだ」と思ったらしい。あ、なんか話ズレてきたけど続けようっと。
 彼らに「どうして日本のマンガが好きなの?」と訊くと、少し考えてから「哲学的」と答えた。
「アメコミにも悩める主人公はいるけど、それは恋人とか家族とか、生きるうえで大切だったりするものだ。でも、日本のマンガに出てくる悩みってのはもっと深くて、個人の存在とか、人間の生きる本質についてのことなんだ」とアメリカのオタク。
 アメコミにだってそういうマンガあると思うけどなあ、という言葉は呑み込んだ。こんな会話の記憶はいつだってある、自分の好きなものが、どれだけすごいかを説明するために言う言葉は、どうしたって偏ったものになるんだ。
「た、たとえばどんなマンガがそれを描いていると思う?」とおれ。
寄生獣」「エヴァンゲリオン」「それはアニメじゃない?」「デビルマン!」「あれは衝撃的だったね」
 おお。確かに挙げられたマンガは、そういう感じの評価を日本でもうけていた。そのあと話は「フルーツバスケットだって哲学的だ」からなぜか「『らき☆すた』はどこまでわかるのか」「あずまんが大王はすごい」など、おかしな変化を遂げていったんだけど、とにかくおれは、彼らの言う「日本のマンガすごい」って話、まるで日本のオタクが喜んで引用するようなステレオタイプな話に、ある意味で興奮していたのだ。
 日本のマンガを好きで、日本に来てしまうぐらいなのだから、彼らが日本のマンガを特別視するのは当たり前だ。彼らにとって日本のマンガは一ランク上のものであり、自分が海を渡るほどの価値が、そこにある。意地悪な書き方をすれば、そうとでも思わなきゃやってられない、ってことなのかもしれない。だって、別にそんなことねえもんな。
 日本に生まれて日本に住んでいたって、同じことが言える。マンガはすごいんだ! 驚くべき表現方法なんだ! って口角泡を飛ばすのは、けっきょく自分の好きなものが誰から見てもすごいもんだってことを、証明したいだけなんじゃないのか? 下手したら証明したいと思っているほど、マンガってすごくなくって、単なる説明を証明と勘違いしちゃってるんじゃないの? トンデモさんの仲間入りおめでとう!倒れ。

繰り返される諸行無常

 おれが思うマンガのすごさって何だ?それって何がすごいんだ?
 と、彼らと別れてからの帰り道、自分問いかけフェスティバルは大きな盛り上がりを見せた。でもでも、たくさんの人間を魅了して、その人生に影響を与えて、住む国まで変えさせるなんて、それはやっぱりすごい力があるんじゃないの?いやいや、大学に行けば日本文学を研究しに留学してきているひとがたくさんいるし、日本の伝統工芸や杜氏の修行に来ている外国人だっている、日本からも外国へ文化を学びに行くひとは多い。それは文化というものが持つ基本的な求心力であって、マンガだけに特有のものではないんだよ。それじゃやっぱマンガってすごいじゃん、日本の文化ってことじゃん。
 うん、そうだね、良かったね。
 良くないんだよ、ほかの文化を批評する方法で、マンガを読めるっていうんだったら、マンガ評論なんて耳かきぐらい有害だ。
 おれは耳かき中毒で、一日何回も麺棒で耳を掃除するのだが、それは過度の掃除によって耳内部の皮膚が荒れて常にかゆい状態が続いているためであって、もはやシャブ中が普通の状態でいるためにシャブを手にするのと同じくらい、おれにとって耳かきとは無意味なだけでなく有害な行為なのである。
 ただ己が気持ちいい理由を、理由にもならないショボいたとえ(ほら、こうすると簡単でしょう?的な)でひとに見せて、どうするんだ。それって何かの役に立つのか。いや、役に立たなくてもいい、芸術なんて脳を刺激する役目だけで十分なんだから。耳から目から何かが入ってくる、脳をひっかきまわす、ふっとばす、胸から出ていく、また求める、どこにある、あの驚いたのはその言葉のどこにある。マンガは目の前にある、いくらでも読める。いま世界にあるマンガを全て読もうと思ったら、これから出てくる新しいマンガなんて読めやしないだろう。それなのに、どうしてマンガについて書かなきゃいけないんだ。考えるだけでうんざりしてくる。
 でも書かなきゃ、だって誰も書いてないから。
 話を頭に戻そう。マンガみたいな出来事が現実にあると、なんか変な味がするのはなぜだ。
 それは、わかってる、現実は絵じゃないからだ。

好きな絵柄、嫌いな絵柄。

 マンガを選ぶ基準って何だろう。きみが好きだと思うマンガを本棚から引っ張ってきて、その絵を大嫌いってこと、あるだろうか。もしあるとしたらよほどの変態だと思うけど。ま、ヨダレを垂らすほど好きじゃないとしても、見るのも辛いほど嫌な絵のマンガを好んで読むひとは少ないだろうし、そういうひとはもうマンガを選ぶとかそういう低次元な世界には生きていないだろうから放っておく。
 そう、だいたい好きなマンガってのは、その絵も好きなもんだ。それは一般的に言って下手だったり、イラストだけで食って行けるほどうまかったり、下手なのにイラストだけで食って行けたりするぐらい好感度が高かったり、なんか負のオーラとでも呼ぶべきものが漂っていて、エロ本のカットなんかでちっともエロくないのに活躍していたりするだろう。
 じゃあ、考えてみよう。どうしてきみは、その絵が好きなんだろうか。これ、もし即答できるひとがいたら、すごいと思う。たとえばおれはパイナップルが好きで、ひとパックを数分で食べてしまうくらい好きなんだけど、なんでパイナップル好きかと訊かれても、おいしいからとした答えようがない。すっぱくて、甘くて、なんかおいしいから。バカみたいだけど仕方ない、何でおれの体は、パイナップルをおいしいと感じるのか、なんて考えたことがないもの。好きなものって、案外適当に好きだ。あたしのこと好き?うん、好きだよ。どこが好き?え、えっと、全体的に好き。これじゃ、本当に好きかどうかがわからない。
 好きの反対は無関心、なんて言葉があるけれども、嫌いなものほどよく観察して悪口を言ったりすることがあるだろう。だから、とりあえず好きな絵柄は置いて、先にきみの嫌いな絵柄について考えてみよう。嫌いで読みたくもない絵柄、手にとることもなく、薦められてもあまり面白いと思えないような絵柄。具体的な作品名があがったら、イメージ検索でもして絵を探し出してほしい、そしてその絵を見て、どこが苦手なのか、じっくり考えてみよう。あ、最初は嫌いだったけど、読んでみたら面白かったんだよね、なんて思っているきみ、その話はすぐあとでするから、とりあえず今は嫌いな絵柄について考えておいて。
 嫌いな絵柄がわかったら、それに渾名をつけてみよう。友達は岡崎京子の絵を「閉じてない絵」と呼んだ。うん、うまい、あ、もうわかった? まだわからない? じゃあほかの友達がつけた渾名、黒田硫黄の絵を指して「うるさい絵」ってのはどうだろう。ね、だいぶわかってきただろう。大島弓子は「もやもやした押し出しの弱い絵」。
 うん、あはは、おれは今出てきた作家のマンガを全部持っていて、そしてその絵柄が好きなんで、彼らの言っていることが良くわかる。彼らが苦手な要素は、そのままおれがこれらの絵を好きな要素だってこと。そして、それは実は絵柄じゃなくて、線なんだ、ってこと。

へだてる、線。

 動物の脳には、境界を見つける部位、というのがある。目から入った風景の中から、ものとものの間にある境界を見つけ出し、そこは分かれているんだぞ、別なんだぞ、と知るための部位だ。人間なら猿のころ、木の枝から枝に飛び移るときなんか、便利だったろう。その機能があるから、おれたちはマンガを読むことができる。境界はものとものの間にある差のことであって、ふつう、目には見えない。でもおれたちはそれを「境界線」と呼ぶ。そこにまるで「線」があるかのように、ふるまう。
 だから、絵ってものを発明したやつは、本当にすごい。与太かもしれないけど、ラスコーの壁画はガキの落描きだった、という話を呑みながら聞いたことがある。裏にまわったら姉ちゃんのおっぱいとか描いてあった、とかなんとか。ガキの落描きってことは、線をひけばそれが何かに似て見えるってことを、ガキどもは知っていたってことだ。
 線をひくと、そこには境界があらわれる。マンガの絵柄っていうのは、その境界のあらわれかたの違いのことだ。現実には存在しない境界を、ことさらに大きく描き、境界の中身に関してはあまり頓着しない。ほとんどのマンガはそう描かれているし、それで別に不自由はない。そうして描かれた線の集まりから、おれたちはマンガを読み取る。
 現実には境界線がない。全てはフラットに配置されていて、その中から境界を読み取り、おれたちは重要なものとそうでないものを分けて考える。疲れてくると妙に風景がクッキリ見えたりするだろう、それはきっと疲れマラみたいなもんで、脳が「やばい!しぬ!」と悲鳴をあげて、境界をはっきり分けて、さあ重要なものを選べ!と叫んでいるのかもしれない。与太はともあれ、現実には境界はあっても線はない。
 だから、マンガの線に好き嫌いが出てくる。自分にとって心地いい境界線のあり方をマンガに求めれば、自然とその基準は「好き」か「嫌い」かに分かれてしまう。脳が勝手にやっていることだ、理屈もへったくれもありゃしない。マグロにハチミツをかけたら気持ち悪い、なのにお前なんで食えるんだ平気で、おれには食えない。みたいな感じだ。でもそれは、なんか変なたとえ話を書いたのでよくわからなくなったが、でもそれは、おかしな話だ、マンガが全て境界線ならば、どうしてそれを分け隔てすることがあるだろう。

同じかたちを見ている

 芸術というものが、いったい何の役に立つのかは知らないけれど、絵も彫刻も音楽も、すべてのものは「あいつはこういうふうに世界を見ている」と知るための道具だ。だから作家自身のことは、はっきり言えばどうでもいい。個人的には、面白い作品を作るひとには健やかで平和な人生を送ってほしいとは思うけれども、それはまあ世界が平和だといいなぁ、戦争とかテロとかでみんなが悲しいと嫌だなあ、ぐらいの意味でしかない。
「芸術を見て心を豊かにしましょう」ってのはつまり、ほかの連中が世界をどう見ているのか、その断片だけでも知っておきましょう、って意味だ。だから子供に古い絵やクラシックを聴かせたってゲームやマンガを読ませたって、見せる側が、その根本がわかってなけりゃ何の役にも立たない。ゲームをやって社会正義に目覚める奴もいれば、我が子を喰らうサトゥルヌスを見て人間食ってみてーって思う奴もいるだろう。
 マンガは、あ、出た。マンガはだから、きみがもしマンガを好きならば、覚悟をきめて線を読まなきゃいけない。それは、ただ話やプロットを楽しむことの、何倍もの苦労があるけれども、きっと何十倍もの面白さをきみに教えてくれる(残念だけれども、線に頓着のないマンガというのもあって(全部のコマがコピーだとか)、そういうマンガは話やプロットを読むための付属物、絵物語として楽しめばいい)。
 マンガってのはそんなだから、境界線のはっきりしないメディアに翻訳されると、なんだか変な味がする。

そしてやっぱり裸で往来へ。

 おれたちがヘウレーカと叫んで往来へ飛びだすことは、あまりない。もっと小さな疑問と発見を繰り返し、頭をくらくらさせながら、風呂場でうめくのがせいぜいだろう。でもそれもこうして文章にすると、まるでマンガみたいだ。だったら裸で往来に飛び出そう、あのほら、観念的に? たとえばなしとして飛び出してみよう。そして自分と世界の境界線を確認して、したたる水を拭きもせずに立ちつくそう。おれにもなんだかよくわからん、わからんけれども、そうしたいんでしょう。

 マンガの話を書いていると、いろいろな話を書きたくなってしまう。今回は線の話を書いたけど、これはまだ「境界線」の話でしかない。線にもいろいろあるし、線の始まりと終わりの話も書きたい。でも脳が追い付かない、ケーブルを差し込んで直接伝えられたらいいのにと思うけど、言葉を使う喜びってのもあるので仕方がない。裸で往来へ、まるでマンガ。読んでくれてありがとう、また次回。

*1:もちろん、外国で作られた実写版のヒーロー映画にだって、どうしようもないものがある。それは予算が足りなかったり、才能が足りていなかったり、その両方だったりして、事情は日本と変わらない