絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

死体はない、そこに死があるだけ

 シン・ゴジラという映画を観て、おれはしばらく席を立つことができなかった。隣に座った友人と顔を見合わせ「良かったな」「うん、良かった」と言いあうことしかできなかった。ただただ、この20年が報われたと、感謝の気持ちでいっぱいになっていた。
 スピルバーグ監督の『宇宙戦争』で一番怖かったのは、火焔に包まれた電車が悲鳴のような軋みをあげて通り過ぎる場面だ。そこには燃え盛る死体も逃げ惑う人もなかったが、確実に死があった。劇場でひじ掛けを握り、必死で怖さに耐えた。
 シン・ゴジラには、全編にわたってそういう恐怖が満ちていた。ポリティカルコメディのような前半部、ライトスタッフな中盤、そして宇宙大戦争のマーチが鳴り響く後半部。20年間で学んだ過去の記憶が面白さを倍増させる。そう、これらのある種愉快でもあるシーンに忍び寄る、死の陰り。短いカットひとつにも、家族を失い、家を失い、帰る場所を失った末に生き残った人々の苦しみと怒りと、それを越えようとする葛藤があった。こんなにも切り詰められた役者の良さを堪能できる映画を「怪獣映画」として見られるとは思っていなかった。本当にすべての役者が役として輝いていた。そこに生きていた。
 だから、おれにとってのシン・ゴジラは、大変濃厚な人間ドラマであった。
 そうだ、死んだ者はいなくなる、生きてる人間しか、生きてる人間の前にはいない。現実と同じだ。だがおめおめと生き残ったおれは、また明日も生きていこう、生きている限りは、何かを作り、誰かに託そう。託されたものを誰かに伝えなければ、それをできるのだから、やらなければ。そのように鼓舞されたあと、三日ほどじんましんを出して寝込んだので、生きていくのは大変だ。