絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

コミ通とおれ。

 映画は必ずひとに影響を与える、とおれは書きますが、何かの政治的意図のある映画を見てポリシーを変えなきゃいけないってことはないし、絶対に変わらないと断言することもないです。それは意図が政治的でない場合、たとえば「野球は素晴らしい」「セックスは最高だ」「ゲイじゃなけりゃ生きてるとは言えない」でも(その逆でも)同じです。
 影響は影が響くと書きます。
 映画を観ている間にその内容が楽しめたなら、その映画を観ている間だけはそのポリシーのもたらす響きに震えさせられているのです。劇場を出たそのあとしばらくしてその影響が消えるのも、それが響きなら仕方のないことです。
 影の響きはやがて薄れて消えていきます。それが強ければ地に紋を残すだろうし、弱ければ観ている間に消えていくでしょう。
 ひとが映画を観るという事は、変化を熱望するということだ、と以前に書きました。これはつまり、ひとは心にさざなみを立てたくて映画を観るのだ、という意味です。心地よい影響を受けたいと思わない者が、劇場へ足を運ぶでしょうか。
 逆を言えば、熱望していないところには、変化も訪れないということでもあります。ただ漫然と観た映画に対しては、喜ぶことも怒ることもできません。
 熱望しない者は、そのような状態で感想文を生み出します。曖昧な不快感と、理解できないものへのうっすらとした侮蔑。正しい答えを教えてくれない教師へ不信の目を向ける小学生のような、軽いおびえ。それらがいい年をした大人の視点で書き連ねられるわけです。
 おれがコミ通を始めて見たときの感想が、それです。何が面白いのかがわからない、それで、おれはコミ通を無視しました。まったく話題にもしなかったのです。
 ところが、その次に見たときは、事情が違いました。おれは「ひどいレビュー」というバイアスを得てコミ通を見たのです。つまり、ひどいと言われるレビューを見て不快感をおぼえたかった。もしくは不快感をおぼえるかどうかの確認をしたかったわけです。
 結果は上々、血の気が引きました。
 ここで仕事に戻ってしばらくして見たら何を書きたかったのかすっかり忘れてしまったので終わります。