絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ノイズは、わたしを、ここちよくします。

あるとき、わたしはライブに行きました。

 会場では、ノイズユニットが数組、セッションを繰り広げていました。あるユニットの人たちは、客席に背を向けて、一心にターンテーブルとミキサーとサンプラーと何かをどうにかしていました。音楽が流れ、途切れ、別の音と混ざり、歪み、引き伸ばされ、潰され、別のものに変わり、また元に戻る。流れる音の渦はわたしとたのしい気持ちにさせてくれました。
 ところが、別のユニットなのでしょうか、どうにもつまらない音を出す人たちがいました。爆音に隠れて音が客席に届かないことを不安がるように、マイクを口に当てて叫んでみたり、スピーカーに近づけてハウリングさせたりしながら、ひそひそと話し合っていました。その人たちは自分たちでたてる音で楽しむというより、その音を聴かせる事を大事に思っているように見えました。
 わたしには、その人たちのたてる音が不愉快でしたし、センスねえなあと思いました。
 前にわたしが見た人は、シンバルを床におとし、クレヨンをぱたぱたと落とし、シンバルに当たる音をわたしたちに聴かせてくれました。でもこの人たちは、シンバルにマイクを近づけ、大きな音を聴かせようと、叩き、やがて飽きたのかシンバルを触らなくなりました。わたしは以前、シンバルという、ものは、落としてもいいし、ただ置いてもいいものだと知っていたので、これがたいそう悲しい出来事に思えました。
 勝手な想像ですが、わたしには、彼女たちが、自己表現のためにノイズを利用しているようにみえて、しょうがありませんでした。わたしの勝手な解釈ですが、ノイズは聴きたいから鳴らすものであって「わたしはここにいる」と叫ぶためのものではないと、思います。正しい解釈ではないかもしれませんが、わたしはそうあって欲しいと思います。
 なぜなら、わたしには、彼女たちがノイズに愛されているようには、見えませんでしたから。
 誰かが何かを作るとき、その何かに愛されているとしか思えないものが、出来上がることがあると、わたしは思います。

あるとき、わたしは舞台に立っていました。

 共演者に、ひとり、とても緊張してしまうひとがいました。けれどその人の演技はとても面白く、わたしは彼と同じ舞台に立つのが楽しみで仕方なかった。彼は確かに演劇に愛されていると、わたしは思いました。
 でも彼は、演劇には愛されていても、彼が本当に愛してやまない映画には、出られなかった。彼はオーディションでいつも、演技過剰であるとの烙印を押され、肩を落として稽古場でダビスタをやっていました。
 彼とは演技の話以外をしたことがなく、わたしは彼のことを何も知りませんでした。あるときわたしは彼に「なぜ君は素晴らしい演技をするのに、緊張するのだ」と訊きました。わたしは舞台で緊張することがなく、板の上に立つのが楽しくて仕方なく、緊張するのは友達の結婚式でスピーチをするときぐらいだったからです。
 彼は言いました。
「舞台に立っていると、頭が真っ白になるときがある、それが怖くて、いつも緊張している」
 わたしは「演技のうまい人は、何事にも真剣なのものだ」とか、的外れな事を言った気がします。

あるとき、わたしは友人の前にいました。

 わたしのことをとても買ってくれる友人に、たいへん久しぶりに会いました。わたしの様子を見て、彼は言いました。
「なんだか、ずいぶん、人と会っていないような、そぶりですね」
 わたしはさみしさが押し寄せてきて、涙を流しそうになりました。
「そうなんだ、最近はずっと誰とも会っていなくてね」
 ほんとうに、そうでした。わたしはある人の期待を裏切ってから、人に会うのが怖くなり、避けるようになっていました。わたしは言いませんでした、誰かに会っても話すことがないんだよ、わたしは言いませんでした、会いたいと思うひとが近くにいないんだよ、わたしは言いませんでした、わたしには、誰かに会ってもらうような価値は、ひとつもないんだよ。
 頭が真っ白になり、言葉が出ませんでした。わたしはわたしがここにいると言いたくなり、口をつぐみました。
「また会いましょう」
 彼は言いました。
「またね」
 わたしは言いました。

あるとき、わたしは天国の門の前にいました。

 門番がわたしに言いました。お前は生涯で何を成し遂げたか。わたしは自分の書いたいくつかの文章のことをしゃべろうとしました。すると門番は手をのばして言いました。
「お前が選ぶのではない、成し遂げたものがお前を選ぶのだ」
 門は開かれました、門番はきっと、わたしが通り抜けても何も言わず止めもしないでしょう。
 門の向こうには野原が広がっていました、門のわきにある花が風にゆれていました。野原の向こうには摩天楼が広がり、新しい建物が作られていました。きっとたくさんの人があの場所で、愛し、愛されているのだと思いました。
 わたしはずっと、門の前に立っていました。
 いまもまだ、そこに立っています。