似せもの、似せるもの。石仮面への挑戦
ワンフェスに出るゼ!当日版権の申請もしたゼ!石仮面!
って言われても、なんだかわからんというひともいるので、石仮面とワンフェス、当日版権について少し説明するよ。
石仮面というのは『ジョジョの奇妙な冒険』というマンガにでてくる、かぶると吸血鬼になれる仮面のこと。去年ゲーム化されたときに初回付録でついてきた石仮面がなんともふんぐるむぅだったので自分で作った。
製作記
http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20070329/p1
イメージ検索すると、いろいろなひとが石仮面を作っている。けど、造形やってるひとの作品がないので不思議。でかいから?というわけで、誰も作らないから自分で作った。イメージはディオが人間をやめるときの感じ、単行本開いてみよう。サイズは27センチと大きく、身長190センチのひとがかぶるとちょうどいいくらい。
ワンフェスってのは、年に二回あるワンダーフェスティバルという、ガレージキットのお祭り。ガレージキットってのは、大手メーカーの関わらない少数生産の模型のこと。ガレージキット版のコミケだと思ってくれたらいい。
コミケと違うのは、なんとそこで売られている模型で作者オリジナルでないものは、全て版権もとの審査を受けてるってこと。当日だけ通用する版権使用許可だから、当日版権、っていうんだ。この審査には「原型監修」が含まれる場合がある。「ここをもっと鋭角に」みたいなことを、権利者から言われるわけ。つまり、もしきみが血だるま剣法のフィギュアを作ったら、平田先生が監修してくれるかもしれないってことです。
あまり模型に詳しくないひとは、勝手に作って勝手に売ればいいじゃん、って思うかもしれないけど、そこがなんというか同人誌(絵)との違いでしてね、模型はなるべくなら、原作者の許可をとって売りたい。それはなぜか。
模型とは、かたどる、ということだ。
まずおれたちは、パロディの前に「パチモノ」について想いをめぐらせるべきだろう。コレジャナイ問題とでも呼ぶべきかな。きみは、マンガの絵を区別できるだろうか。毎週一冊の雑誌を買っているひとなら、その雑誌の違うページに載っているマンガを、同じマンガだと間違えることはないだろう。数冊買っているひとならば、その判別基準はもっと細かくなるだろう。おれのように毎週10冊ぐらいの雑誌を読んでいると、違いがわかるだけではなくて、ちょっとした描線の変化から「ああこの作家最近○○で連載している××に興味を持っているな」ぐらいのことは言えるようになるかもしれない(勘違いすると、ベテラン作家の久々の連載を見て、後輩作家の絵と似ていることから「アシスタントじゃない?」なんて書いたりする、おれじゃないよ!どっかのブログだよ!)。
でも、毎日マンガに接していないとしたら、絵柄の区別はつくだろうか? まだ読者の意識が低くて「マンガ読み」なんて呼び名がなかったころ、こんな言葉を聞いたことがないか。「マンガの絵なんてどれも同じようなのばっかじゃん」きみはその言葉を聞いて嘲笑ったはずだ。尾田栄一郎と真島ヒロを間違えるのはヒドすぎるとか、萩尾望都と竹宮恵子の区別がつかないなんてよほど蒙昧なんじゃないの、とか。
確かに、似た絵を採用する雑誌は存在する。読者の要望に応えて絵柄を変える作家も存在する。だからこそ、マンガ読みであるきみはその中から微妙な差異を見つけ出して面白がることもできる。だけど、普段マンガを読んでいないひとから見れば、それらは同じようなマンガの絵にすぎない、青年誌なら「なんかゴサゴサして暗い絵」中年向け雑誌なら「線に勢いのないベタっとしたマンガ」等々。見慣れた種類のマンガなら、どれでも簡単に区別がつくのに、どうして見慣れない絵柄はみな同じに見えてしまうんだろうか。
うん、それはね、実はおれたちには何も見えてはいないからなんだ。
視野、と一口に言うけれど、これはどれくらいの範囲で、どのくらいの精度で見えているものか、知っているだろうか。目に入る幅は、上下左右でおよそ120度ほど、でもこれは見えている、というだけにすぎない。目に入った情報を処理するのは、脳だ、この脳ってやつは、たいへんな手品を行っている。実は目から入った情報を処理するときに、見えたものは十分の一くらいに圧縮されてしまう、100×100のドットで描かれていたキャラクターが10×10くらいのアイコンになってしまうと思えばいい。しかも、中心視野から離れると、その解像度はさらに減る。盲点を確認してみたことはあるだろうか、画面の点に向かって顔を近づけると、ある一定の場所でその点が消えるとか、そういうの。盲点がおれたちには見えないように、ほかの部分に関しても脳はいろいろと面白い加工をしてくれているらしい。
簡単に言うと、普段見ている景色の中には、実際には見えていないが、見えているように加工されたものが転がっているということだ(当然少しでも見えれば更新されるので、眼球は絶えず振動しているし、動きの検出能はもっと強いから、本当に見えていないものは、よほどのことがない限り見えない)。
まあそんなわけで、よく見ているものは脳に記憶のストックがあるから見えるように感じるけど、あまり見ていないものはとりあえずありあわせのものでごまかすしかない。だから、しっかり見ておかないと、全部同じに見えてしまう。
その「あまり見てないと区別がつかない」という人間の弱いところを突いたのが、パチモンってやつだ。仮面ライダーによく似た違うやつ、ウルトラマンみたいな顔なのになぜかマフラーをしているやつ。唐沢なをきさんがフィギュア王で連載している「パチモノ天国」には、そんなばかみたいな絵のメンコやぬり絵がいっぱい出てくる。とても当時の子供だって騙されたりしなかっただろう、なんて思えるようなパチモノワールド。でも実際には買ってしまったし、あとでだまされたと気づいたりもした。
パロディが商品として難しいのは、それが原因だ。本ネタを愛するがあまり、パロディにしてしまう。それはまったく違う絵柄だったり、まったく違うお話だったりする。でも普段本ネタとなったマンガを読まないひとには、パロディと本物は区別をつけづらいものになる。そう、愛ゆえに生まれた作品は、あろうことか愛の欠片もないパチモノと同列に見られてしまうのである。なんたることか。
そして、模型とは、本ネタを小さく模る行いだ。さらには、マンガのキャラクターをフィギュアにするということは、二次元に生まれた愛を、三次元に翻訳するということになる。それは、なるべく本物そっくりに作られなければならない、もちろんキャラクターが消費されているもの、たとえばヱバンゲリヲンの綾波レイとかであれば、オリジナルアレンジも楽しいだろうが、キャラクターではないもの、つまり本ネタのマンガの中でのみ通用するもの(たとえば今回の石仮面もそうだ)にオリジナルアレンジなんて、絶対に加えてはならないのである。それは単に「似せられない」ことのゴマカシでしかない。そう、おれたち造形屋は「偽物」を作るのが仕事だ。それもなるべく本物そっくりの偽物を。
おれたちは、その存在の根源から、永遠にパチモノメーカーであり続けるのだ。ただ一点、その実物を誰も見たことがない、という点を除いて。
オフィシャルに認められたい、とはそういうことだ。