絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

そのマンガ、本当にわかってる?

 よく歌手のインタビューなんかで、伝えたいことが先にあって、音楽はその手段にしか過ぎないのだ、なんて言ってたりしますな。おれはあれがどうにも解せない。いや、そういうひとがいるのはわかるし、音楽やめて作家になるのを見たりすれば「ああ、別の方法を見つけたんだな」と納得もできる。でもね、音楽をやりながら「音楽は手段のひとつ」って言うのはつまり「目的のためには手段を選ばない」という考え方の、もっともだめー、なやりくちじゃないかなあ、と思うわけである。

情報の高密度パッケージ

 ずっと「マンガはすげー」って話を書いているのであるけれども、改めてまとめてみると、本当にすごい。何がすごいって、ほかのメディアには不可能な表現が目白押しなところがちょうすごい。しかも、マンガの描き方なんてのを読んでみると、そのすごさが全然意識されてないところがまたすごい、無意識ですごい、たぶん実作者と紹介者の違い、みたいな問題でもあるんだろう。あるサイトのマンガの描き方に描いてあったコマの説明をちょっと模写で紹介してみよう。サイト名を忘れてしまった、誰か教えてください

 どへたくそな模写で申し訳ないけど、これはひとコマでどれだけの情報が伝えられるか、という説明に用いられた絵だった。1.の絵よりも、2.の方がマンガらしく見えるでしょう、とか何とか。確かに、この模写ですら、2.にはかなりの情報が詰め込まれていることがわかるね。
 ところが、だ。その「マンガの描き方」は、この2.のコマに使われた基本的なマンガ技法を説明するだけ、つまり「集中線」「キャラクターの描き方」「効果音」だけを取り上げて、あとは表情だとか、漫譜だとかにちょっとふれるだけで、この絵の話を終えてしまったのだ。「どうだい、ただ横向きに描くよりも臨場感があるだろう」なんて、そりゃ確かにそうかもしれないけどさ、それは何でそう見えるのかを教えてくれなきゃ、別の場面でどうすれば臨場感が出せるのか、わからないじゃないか。だいたい、それだけを説明するんだったら、このコマを使わなきゃいけない理由がないだろう。どうして1.のコマと2.のコマは違うんだ、違って見えるんだ。
(別の回では「ロングショットを使って位置関係の説明をする」なんて書いてあったから、映画の技法にとらわれちゃったかわいそうな「マンガの描き方」なのかもしれない。ロングショットは位置関係の説明のためだけにあるんじゃない。いや、映画でだって位置関係の説明にだけ使うってわけじゃないんだけどさ)
 このコマに使われている技法には、上に書いたほかに、どんなものがあるかを考えてみよう。まずはじめにおれたちは、彼がどこへ向かっているのかを知ることができる。おそらく、トンネルらしきところを走っている彼は、出口に向かっているんだろう。なぜならコマの左下に、白く抜けた出口とおぼしきものがあるからだ。1.ではそれが描かれていないから、何が描かれていないか、を知ることができない。2.では彼の後方が描かれていないから、後ろから何が来ているのかはわからないんだ、ということがわかる。
 彼が後ろを振り返ることで表情が見える。この場面に臨場感があるとすればここだ。でもそれは、ただ顔の表情が見えている、というだけのことじゃない。背景と、キャラクターの顔が同時に見えると、おれたちはキャラクターの感情や立場、精神的な位置関係をよりはっきりと知ることができる。もし、背景と顔を別にして、たとえば単なるクローズアップを継ぎ足したとしても、同じ効果は見込めない。なぜなら、クローズアップには圧迫感や時間の推移を表現するほかに、対象が移動していないことを表す効果があるからだ。このコマを使わなきゃいけない理由、それは出口と表情が描かれているからだ。
 じゃ、ためしに、前のコマから読み取れる材料を、いくつか抜いた絵を描いてみよう。

 彼の向かう先が見えないと、おれたちには彼の行く先がわからない。彼の表情が読み取れないから、彼や彼の陥っている状況に不気味さをおぼえる。とにかくあいまいで、彼がどこにいるのかもよくわからない。突然このコマを見せられたら意味がわからないけど、よくわかる話の中に効果的にこのコマが挟み込まれたら、そのわからなさには深い意味が出てくるだろう。
 ひとコマだけで、これだけのことがわかるのだ。余計な演出論や、つまらないアレンジなどを加える意味はない。しかも、さらにすごいことに、マンガを読むことに慣れてしまったおれたちは「見えない」ことにさえ意味を見いだせるようになってしまった。
 もちろん演出のレベルでは、そのあとに続くコマを工夫するだけで、さまざまな印象を与えることができる。『嘘喰い』の斜め後ろアングルとか、派手なところでいえば『範馬刃牙』の、キャラクターの目が描かれなくなるコマとか。

わかることが前提だ。

 マンガは、ある出来事を(それにまつわる感情や精神的な位置の変化を)わかりやすく見せるために作られた。だからこそ「わからない」とすぐ「つまらない」と思えてしまう。でも、好きなマンガの中で何かがわからないときは、次に何が起こるんだろう?って期待しちゃうでしょう。それはつまり、わかるところとわからないところが、きみにとっては気持ち良く配置されているからなんだ。
 大雑把にいえば、面白いマンガのコマは「何が起こっているのかわかるコマ」と「何が次に起こるのか気になる(わらかない)コマ」の二種類しかない。
 前に書いた「全てのマンガはギャンブルを描いている」って言葉の裏付けがこれだ。ページをめくるまで、おれたちは次に何を見せられるのかを知らない。ということはつまり、何も起こらないように見えるマンガというのは、ずっと期待させ続けるマンガである、というふうにも言える。結果が早く出るギャンブルもあれば、何週間も待たなきゃいけないギャンブルもあるだろう。ページをめくるごとに興奮させてくれるマンガと、単行本で読むと味わいの深いマンガの違い、みたいなもんだ。
 だから、あるマンガがわからんときは、つまらないのではなくて、だいたいそのギャンブルがどんなものかが、わかってないんではないか、と思うわけであることよ。
 あるとき、友達が「大島弓子わからん」と言うので話を聞いた。彼は「何であんなに過剰なまでに説明するのかが、わからん」と言った。おれとしては「大島弓子=ほったらかし」のイメージがあったので、はじめは何を言っているのかが、ちっともわからなかった。それで、何のことだと訊くと、彼は『綿の国星』を取り出した。
 彼の開いたページを読むと、確かに説明が過剰だ、むしろ、説明ゼリフの合間に絵があるぐらいに見える。でも、何度も読んだこのマンガ、これとは正反対の、まったく何も説明していないコマがあることを、おれは知っている。試しにそのページを開いて見せると、友達は腕を組んで「そうなんだよ、過剰に説明していると思ったら、何の説明もない、だから余計にわからなくって……」と困り果てた。
 『綿の国星』を読んでないと、おいてけぼりだろうけど、文庫も出ていることだし、きみが読んでる前提で話を進めるよ。友達が言っているのは、こういうことだ。大きく分けると、チビ猫が誰かといるときは、とにかく過剰なほど説明が入り、チビ猫もアホほど自分の考えを述べる。けれど、しばらくしてチビ猫が一匹になったり、最後のひとコマ(見開き)になると、まったく説明のないシーンが続き、セリフも断片的なものに変じていく(あくまで傾向がある程度の話ですけれども!)(大島弓子は研究してるひとが多いから下手なこと書くのが怖いんだよな)(でも書く)。

もはや少女マンガ特有の技法でもない、アレについて。

 少女マンガの基本的な技法として、同時進行するセリフとポエムってのがある。『はちみつとクローバー』の中でも多用されていたから、普段は少女マンガを読まないひとでもなじみがあるだろうし、最近は青年誌でよく見るようになった技法でもある。こういうのだ。

似たような技法はミュージカルでもある、別々の人物が歌っている別の歌が、重なって同じ歌の別パートになっていき、違うメロディが同時に聴こえるというようなやつ。マンガと違うのは、声だけでは済まない、というところだ。とりあえず説明図には「セリフとポエム」とは描いたけど、これは絵でも代替できる。そうすると、単純計算で三本のマンガが一気に展開することになる。というわけで、この技法を使うと、一ページに込められる情報の量が桁外れにでかくなるのだ。
 話はズレるけど『ホーリーランド』ではそれが「作者ポエム」じゃなくて「作者からのメッセージ」になっているところが新しかったし、最終回の近い号では作者も意識して読者へのメッセージを本編に載せていた。ズレたついでに少年マンガの話を続ける。『男組』と『テニスの王子様』の最終回が、同じようにこの技法を使っている。前者は『ワルシャワ労働歌』を引用して、後者はテーマソングの初お披露目をした。どちらもキャラクターの聴こえる音として、その曲が流れているわけではないから、読者は勝手にその曲をBGMとして脳内で再生することになる。でもやっぱり絵としてはキャラクターがそこにいるし、おれたちにはその音がBGMなのか、キャラクターの脳内で響いている音なのか、区別することができない。あいや、この二作品に影響を与えたのは映画やテレビドラマだとは思うけど、結果的にはそれがマンガで表現されたというだけで、絶対に映像で再現できない異様な空間になってしまった、ってことが言いたいのです。
 話を戻す。大島弓子はこの技法を、ぶったぎってしまったんじゃないか、と思う。そして、あらためて並べなおして、マンガにしてしまった。犯人がわかっている探偵小説のようなもので、おれたちは答えをさんざん聞かされたあげく放り出される。路上に、雨の町中に。ずいぶんと不格好なやり方ではあるけれども、それはとても効果的だった。もし、あのマンガが正当な技法、つまり情報を均等に圧縮したあの方法だけで描かれていたとしたら、果たしてあそこまで大胆な展開になっていただろうか。いや、そんなことはありえないだろ。
 むしろ、わからないことではなくて、わかることの方が問題かもしれない。わかることが多すぎると、わからないことが見えなくなる。

マンガの中で「説明されること」って結局何なのか。

 マンガの感想に個人差があるのは、その情報密度が高かろうが低かろうが、もうほんとに、どうしようもないことだ。情報密度が高ければ、そこから何かの意味を読み取るのが難しくなるし、情報密度が低ければ、誤読するのもどんどん自由になっていく。テレビドラマ化されやすいマンガ、というのがあって、第一には特撮の必要がない、ってのがあるんだけど(時と場合)、その次に大切なのが描線の適度な単純さ、なんだよね。単純過ぎれば誤読されることが多くなるから企画会議を通らない、複雑過ぎれば誰にも読めないからそもそも企画の俎上に上がらない。キャラクターの顔が崩れないマンガの方がドラマ化されやすいのは、そういうことだ。
 でも、はっきり言って、テレビドラマや映画なんかにならなくたって、マンガはそれだけでいい(もちろん映像化されたら漫画家もうるおうし、それに越したことはないケド)。映像、というかリアルタイムメディアでは絶対に描けないことを、マンガはやれる。それはきっと文学とか絵画がずっとやってきたことだし、やろうとしてできなかったことだと思う。それはマンガという手段が生まれなければ、きっと誰も気づかなかったことでもある。
 これをいきなりここで書いちゃうと、単なるトンデモ扱いをされてしまうので、機会があるまでその結論はとっておきたい。いや実は何度も書いているんだけど、それについて反応をもらったことがないんだよ。あ、まだ早いんだな、と勝手に解釈している。なんにせよ、手段は目的を凌駕する、マンガはもはや何かの代替物ではあり得ない。それを読むことができる幸福を今はかみしめよう。
 ああ、そうか。だからおれは、マンガ家のインタビューで「マンガは手段のひとつに過ぎません」なんて言葉を読んだおぼえがないのだな。