絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

最近の若いもんは教養がないのかどうか。

虫博士のエントリ

最近、職場で、「最近の若い衆は最低限の教養すらない」というぼやきがあって、彼らのために「これだけは知っておけよ」というリストを年長者が作るべきではないか、という提案があった。まあ、俺もその立場上、そのリストを作らなくちゃいけないんだけど……憂鬱だ。
http://d.hatena.ne.jp/nishiogikucho/20060530/p1

 この話のグっと来るところは、ラストの「教養とはリスト化できない何か」というところだ。おれが想像したのは、運動する物体の持つエネルギー、放物線を描いて飛んでくるボールの、まさに飛んでくるさま。若さとイコールで結ばれることの多いそういう力が、最近の若者からは感じられないと博士は嘆く。
 ほんとうにそうだろうか?最近の若いもんはそういうエネルギーに欠けているのか?

「ところで最近の若い衆は、背伸びをしない印象がある」という話になった。自分がある本・著者について知らないということを、まるっきり恥じないで、開き直っている、そんな印象。

 こういうのは、個体差による印象のかたよりだと思う。どういうことか。
 若い頃に背伸びをした個体Aは、若い頃に背伸びをしたせいで「若い頃には背伸びをするもんだ」という記憶を持っている。そのような個体は似た経験をした個体、つまり若い頃に背伸びをした個体Bと知り合う可能性が高い。なぜなら個体Aが他の個体と出会うときに「若い頃に背伸びをした話題」を持ち出せば、その話に乗る相手は若い頃に背伸びをした記憶を必ず持っているからだ。すると、個体Aおよび個体Bは同じ記憶の共有を確認する(この辺同義反復めいているが説明は省く)。個体AおよびBの共有する記憶サンプルの中には、若い頃には背伸びをするものだ、という規範の証拠が多くなる*1

 次に若い個体Cと個体Aが出会う。若い個体は若いから「若い頃に背伸びをした記憶」を持っていない。そして個体Aもまた、若い頃の自分を観察した年上の個体が持っている「背伸びをしているAの姿がどう見えるか」という記憶を持っていない。

 そこで個体Aは、自分の記憶にある自分の行為と目の前にいる個体Cの行為を比べることしかできない。そして若い個体Cは「背伸びをした記憶」を持っていないために個体Aと記憶の共有ができない。
 その結果個体Aの記憶サンプル中の比率はかたより、最近の若い者は背伸びをしないという印象が強まる。
 ボールを真上に投げると放物線を描いてボールは落ちてくる。しかしボールを投げたおれたちはボールがどのような曲線を描いて戻ってくるかを頭の中で意識的に計算しているわけではない、ただ経験に則って「およそこの辺に落ちてくる」と予想を立てているだけだ。動物はおよその範囲でしか物事を判断できない。つまり、記憶の中にかたよりがあってもそれを直感的には補正できないということだ。
 教養はかたよりを強めたり弱めたりする力だ。それをひとは直感的に補正できない。泥水の流れ出すホースはやがて詰まる。泥が内側にこびりつき、その上にまた似た成分の泥がこびりつくからだ。必要なのは違う種類の泥で、たまった教養を洗い流してやることだ、きれいな水は残念なことに存在しない、泥は泥だ。それでもたまった泥をすこしだけこそぎ落とすことができる。
 最近の若い衆へ向けた基礎教養リストを作りたいという欲望は、同じ泥をなすりつけたいという欲望でしかない。そこに虫博士は反発したのだろう。必要なのは力であってリストではない。ならば、その力をほんとうに欲するならば、教養の欠落を因としたディスコミュニケーションに終止符を打つべきだ。
 そういうエネルギーの欠けていない若者は、実在する。今までも、そしてこれからも。

*1:若い頃に背伸びした記憶を持っていない同年代の個体Dと会っても個体Aはその反対意見を得るわけではない。なぜならしたことを記憶するのは簡単でも、しなかったことを記憶するのは困難だからだ