絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ネットラジオがクネクネする理由。

 要約:リスナー同士に共犯関係が生まれないラジオはクネクネして聴こえる。

馴れ合いに対する強烈なカウンターになるのかなと期待していたら、なんだか既視感に襲われた。
id:kowagari:20050507:1115433959より)

 というわけでネットラジオhttp://xtc.bz/?ID=131の話ですが。
 聴いたのは中盤からですけれども、ばるぼらさんに質問するあたりでは(多少の混乱はありつつも)面白い話だったような気がします。実験さんかな、必ず喋るときに「実験ですけれども」って自己紹介してくれたのでわかりやすかった。自分から喋りだすひとは全員がそうしてくれると助かったんですけどね。
 そう、自分から喋るということ。ネットラジオがクネクネする理由は、頼まれもしないのに喋っているからだと思うわけです。質問される側がクネクネすることは少なくて、どうしても司会者が喋りたがる状況が生まれてしまう。やがて、司会であるはずの人間がその場の空気を操作しはじめる(様子が見えてしまう)。

あのラジオではその人をおおっぴらに嘲笑してもいいっていう空気というか共犯関係があって、尚且つそれを数百人からが聞いている放送に乗せちゃってもあるいは構わない、っていう、そういういやーな馴れ合いの空気が出来上がっていた。(同上)

 頼まれもしないのに勝手に共犯関係を押し付けられたら、それは嫌な気持ちがするだろうと思う。MOKラジオの最後の方で彼らのうちのひとりが「昔ぼくらがオールナイトニッポンを聴いていたときのような興奮を再現したい」というようなことを言っていたけれど、それは「その人をおおっぴらに嘲笑してもいいっていう空気」を作り出した上での興奮であったことを失念しちゃいけねえのだ。
 ここで例えを出すと、ゴミラジオっていうネットラジオが(なぜか今では削除されてしまっているんですけれども)すごかった、ものすごい面白かった。とにかく頼まれもしないのにひどいことをやる、やりまくる。一番ひどかったのは出演者が全員おむつをはいて尿意をがまんするラジオのとき。最終的には全員おむつに放尿。「ああああああ〜っ」って声とともに放送。これはひどい、あまりにひどいけれども、聴いてるこっちは床をころげまわるほど面白かった。だって目の前で他人がおもらしをして、それを笑っていいんだから。しかも頼まれもしないのに放送してるんだよ。聴いている側は、たぶん彼らの彼女も親も聴いたことがないであろう声を、全員で共有しちゃったわけですよ。そこで「聴いてはならないものを聴いてしまった」という、リスナー同士の共犯関係が生まれるわけです。
 MOKラジオの面々はもちろん放尿なんてしないだろうけど。したってたぶん面白くはならないからね!
 というわけで、つづきます。ぼくは昨晩のMOKラジオをクネクネしていて面白いと思いましたので(でなきゃチャットで発言しません)否定的な話ではないです。たぶんプロアマ関わらず、自発的にネットで発表する作品全域の話になると思います。よくわからないですけども。

追記2:というわけで続きです。殺陣師段平の感想もどうぞ。ボヤボヤしてたらこの有様。ラジオに出演していた吉田アミさんが答え(のひとつ)を明快に解答されていました。

私はそういった不自由さや不便さは嫌いではないことに気が付く。経過を知らなければ得られない、経験をしなければ、理解できない、到達できない答えがある。
id:amiyoshida:20050509:1115635257より)

 不自由さや不便さといったもの(開始1時間半では面白さがわからない、等)が価値を生む、という意味でいえば「当事者だから楽しいのだ」という話は件のラジオでもしていて、それを聞きながらおれは「だから音楽家でいらっしゃる皆さんはライブをやればいいのであってなぜラジオなのか!ドン!」と机を叩いたわけですが、音楽であれ言葉であれ、ひとに何かを伝えるという行為であることに違いはないわけです。だから、彼らにとってラジオはライブに等しい行為であるのだろうし、そうあってほしい。あ、もう上記引用文章を全文読んだものとして話を進めますけれども、以下はネットで作者の意図や発言された経緯から分断された情報を手に入れて理解/誤解するということが何をもたらすのか、それについて考えようと思ったんですが、ここまで材料が出てきたらもういいかな、って思ったので要点をまとめて終わります。
材料:ぼくが占い嫌いであること、カテゴライズなどいくらでも恣意的にできると主張していること、本文でもカテゴライズなんてうんこだと主張していること、そんなid:screammachine:20050505#p1へのふしぎな言及いろいろ。
要点:ウェブでは作者の意図や発言された経緯から分断された情報を手に入れて理解/誤解する場合が多く、その理解/誤解を引用者が意図的に放置することによって生まれる面白さ*1もある。何にせよ言葉は理解/誤解を生む、ウェブはそれを増幅する。リヤルはおのれの腹のうちにあり、うすっぺらなモニターの表面や「向こう側」などにはない。自発的に作品をネットで(無償で)発表するということ、それは腹のうちのリヤルをむきだしにするということだ(意図せずともそうなる。ならなければ、それだけの腹のうちということだ)。その「むきだしのリヤル」に出会ったときに、おのれの腹からリヤルを引き出せるかどうかが、読者の側にとってのリヤル分岐点になるのだ。全然要点じゃねえなこれ。つづく。
 んで、つづきというか、混乱してきたので結論。

ブログというシステムは、特定の作者の人格をあぶりだすような志向を持ってデザインされたものではないと考えられるからです。
id:solowr:20050510

 吉田さんのさやわかさんに対する問い「何故、彼があらかじめエントリーごとに読ませることを拒絶しているのか」に対する答えに相応しいものなのかな、と思いました。例によって引用エントリや言及先を読んでるひと(まあつまり自分)相手に続けますけれども、今回の出来事を一連に並べると、かなり明快な答えがあらわれてくると思うわけです。
ユリイカブログ特集→はてなDユーザーがまとめ役→トークショーにおける編集長(文学者)の果たせなかった役割→テキストサイトニーツオルグからの提言(はてなDユーザー栗氏の過剰反応)→音楽サイト主催のMOKラジオ放送→はてなDユーザーアニ氏の反応→後日聞きなおしての感想修正以下etc.
 分断された情報は、集めることであいまいながらもその形と意味を取り戻すわけです。バラバラにした言葉を、バラバラにしたツールでまたひとまとめにする。ブログというのはそんなノリとハサミみたいな道具なんですね。ところが、はてなDはそこまで堅物じゃない、どこかで「日記」という名前に相応しく「書いているひと」を残してしまう。しかもキーワードでつながる面白ブログだから情報単体としての価値が低くなりがちで、しかも著者の雰囲気は残してしまうだけで前面に押し出しはしないから「作品」として書籍化もされないし、文学誌のブログ特集にも相応しくない、というわけだ。わあ、大変だ。
 まとまらなくなった。ネットで無償作品を提供する理由?つまりカットアップの材料はみんながほしいんだから、つくろうじゃないかってことなんだと思う。もう消費者の数はとっくに作者の数を上回っていて、それでも回っているのはカットアップで作り上げられた作品もまた無償作品であるからなのだ。もう何がなんだかわからん、手に負えなくなった。おわる。
 おわっちゃダメだ、間違えた。問題は「ネットラジオがクネクネする理由」だったのだ。でもそれはかなりまとまって答えが出てるよなあ、つまりテキストサイトや文学は作者の顔が明確である場合が多いから、クネクネが価値のある情報になる。だけどブログ的観点から見ればエントリ一本で成り立っていないクネクネラジオ(しかも頼んでいないのに喋っている!)は単なるクネクネだ。一番最初に書いた要点で事足りる話をこんな長々書いてんのかおれは、バカか。まあいいや。
 つまり、必要なのはバラバラなエントリを俯瞰する視点ですよ、ということだ。提供する側も、受け取る側も、もはや寝転んだ赤ん坊ではいられねえのだ。物事は階層的に上や下で見るのではなく、天井のない巨大迷路のように部屋と部屋の関係で見なければならない(成長というのは多くの部屋を見知ることだ)。けれど、そのとき、安易な相対主義に陥ることのないように気をつけなければ、ぼくたちはすぐ風に吹かれて飛んでいってしまうだろう。だから誰かが作ったお仕着せのものではない、自分のためだけの、自分が見た俯瞰図を作ろう。それが結論だ。
 うん、つながった!おわり!

*1:「それに、「自分は川西杏世界に所属しております!」と堂々と言ってのける人とは、なるべくならお近づきにはなりたくないので、つまり川西さんの名前を書くこと自体、触らぬ神に祟り無しです」http://www.ultrasync.net/naph/