絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

あかんではないか。

 秋葉原通り魔の前に、まずは、共感能力の話をする。
 おれが今、話しかけているおまえは、実は本当のおまえではない。おれの頭の中に生成された、おまえの複製品だ。
 話していて、気が合う仲間であるとか、雰囲気がいいとかいうのは、その頭の中に生成するのがうまくいく、ということだ。おまえが友達と他愛無い会話して楽しいのは、脳内にある友達のモデルが強化され、そのモデルがする反応と、現実にいる友達の反応が、ズレなくなるからだ。モデル化がうまくいかなければ、おまえは不快感をおぼえる。想像と違う反応を返す友達を、おまえは「空気が読めていない」と思うかもしれない。いやむしろ、脳内モデル構築の苦手なおまえを、まわりの人間が「空気が読めない」と非難するほうが多いとおれは予想する。勝手に想像する。どうだ、失礼な話だろう。でもおまえも随時これをやっている。やらなければ、そもそも会話が成立しない。いちいち目の前にいる人間に、使う単語や、言い回し、内容について確認をとったことがあるか。ないだろう。会話を続ければ、脳内モデルは自動的に更新される。こいつは、こういうことを言うと笑うんだな、こういうことを言うと怒るんだな。 
 人間は、進化の過程で、こういう能力を持つようになった。言葉と同じように、集団生活を行ううえで、その力は適応的だった。たとえば、ばかでかいもんを作るときには、みんなでばかでかいもんを使っている自分たちや、後世の子孫やらを想像した。実際に使うもんでなくても、神様とか、偉い者の魂だとか、共感の対象は何でもよかったから、実はばかでかいもんを作りたかっただけかもしれない。そのへんは、よくわからない。まあとにかくなんの目的もなしに大勢が何かするってのは想像しづらいだろう、虫じゃないんだから。仲間が喜ぶとか、敵が苦しむとか、そういうことを想像して、作ったり壊したりした。
 でも、共感能力には、便利なかわりに副作用もあった。脳内モデルは作ろうと思って作るようなもんではないのだ。何かいる、ということを知ったときに、それは脳の中に、勝手に生成される。だから、たとえば友達が、駅の切符売り場で乱暴に押されながら横入りをされると、その横入りをした奴がおれの脳内に生成されて、なんだかわからないが居残る。
 「どけよ」と乱暴に言い放ち、体の弱い友達に、無理から肩をぶつけてきたおっさんの背中が、脳に刻印される。
 それ以降、一切かかわりがないのに、自分が何かひどい目に遭ったわけでもないのに、夜中に突然思い出して、頭を熱くして眠れなくなったりする。いなくなってほしいのに、消え去らない。誰かもわからない、更新不可能な記憶。共感能力さえなければ、そんな記憶は残らないはずだ。でも、進化というのは、温度調節用に伸びた皮で空が飛べるみたいな便利な間違いを起こすこともあれば、こうやって不便な能力を残したりもする。そもそも意識とか知能なんてのも副作用かもしれないけど、まあそれはいいや別に。 
 次に、ちょっとだけ、刑罰の話をする。刑罰があるのは、社会維持のためだ。大きな停電が起こったり、何かの不満が爆発したときに店を襲ったり車を炎上させるのは、こんなくそったれな社会なんて維持する必要ないぜー、というふうに思うからだ。そう考えると刑罰が怖いから犯罪を犯さないぜ、と思って犯罪を犯していないおまえは、実は刑罰が怖いんではなくて社会を維持したいのかもしれないな。いやしかし社会などというものは普通に生きていたらあまり意識されないものなので、公務執行妨害をして黒い袋に入れて踏まれるのは嫌だから警官を殴ったりはしないぜ、というのは刑罰が怖いから犯罪を犯さない、ということなのかもしれない。ちなみに警官は法律上黒い袋にひとを押しこんで踏んだり蹴ったりしてはいけないことになっているが。
 そして、刑罰自体は「失われたものを取り戻す」ことを目的にしている。でもなあ、金銭や物品なら取り戻せても、苦しみや悲しみ、そして失われた身体の一部や命は戻らないだろう。だから、昔は体や地位を失わせて、今は時間や可能性を失わせる。そして、いまも昔も命は最後の持ち物で、それらを失わせると終わったー、って感じがする場合も多い。
 そう、終わったー、って思うだけで、実は何も終わってはいない。罰を与えて、何かを失わせても、それを知ったという記憶は操作できない。それがあった、という記録は、たとえば政府やマスコミが隠蔽することもできる。時間が経てば、事件そのものをなかったことにもできるだろう。それでも、その時におれがそれを知ったその時に、脳内に生成されたモデルは、消せない。とりあえず終わったー、って思いたいから「すぐ死ね」と言うやつもいるだろう。逆に犯人がずーっと罪の意識に苦しめばいいと思って死刑とかはいけないみたいに言うやつもいて、それはそれで「ずーっと苦しんでる」という結論を知ってすーっとする。原因を究明するぞー、と頑張っていろいろ考えて、いつの間にか犯人やらなんやらわからなくなるやつもいる。「犯人はおれだよー」と犯人に共感することで見知らぬひとが無意味に死んでいやーな感じを消そうとするやつ、なんか怒りながら犯人に似た奴をけなしてすーっとするやつ、いつもの通りに生活することで、事件そのものをなかったことにするやつ。いろいろだ。
 いろいろあるけど、もしそれがどんな反応であれ、怒ったり、泣いたり、喜んだり、憎んだりするのは、それを知って、脳の中にできあがったそのイヤーなあれをどうにかしようと思うことなわけで、そのこと自体は悪いことではない。悪いことではないが、それがいつの間にか現実と関係ないものに変わっていったり、知らないことを勝手に補完したり、自分の考えにそぐうように記憶をつくりかえたりすると、次第に頭の中だけで膨らんでいった他人のモデルが悪さをするようになって、夜中にカッとなって跳び起きたり、朝まで眠れなかったりする。
 ダメではないですか。

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか

誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか

 というようなことを、これとこれを読んで思った。『誘惑される意志』はこれからバンバン影響されたことを書いていくので、買っておくとここを読まなくてもべつによくなる。そうでもないか。実は町田康をちゃんと読んだことがなくて『告白』が初体験だったのだが、すっかり文体に思考をハックされた。ところがおれは東京弁ネイティブ(ちょっと熊本弁)なので、できもしない河内弁で書くわけにもいかず東京弁でその雰囲気に近づけないかと思ったが無理だった。やっぱり東京弁はいやらしいな、いけすかない感じだ。
 事件そのものについては数日間頭の中をグルグルしたけど、結局のところ他人事に何口さし込んでけつかんねんという感じだからべつに。あと、誰からも「どう思ってますか」とは聞かれなかったので、問題の核心はそこだと思ったりした。
 誰もおれに期待しなくても、おれが期待すると誰かがおれに何かを言うぜ、ということだ。