絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ファック文芸部杯出品作品『表現された秩序』

「さんさんとふりそそぐ光、小川のせせらぎ、木の葉のささやき、おお、私はついに来た」
ブリギッテ・ビョルン『逃避行』燐光舎刊

「教授、何を言ってるんですか、教授?」
 肩を叩く緑色の男、みどり?ああ、遮光ヘルメットのにぶい反射光だ、空の紫、雲の黒。
「なんだい?」
 私は頭をひとふりして答えた。ヘルメットの中は完全防音で、自分の声は耳の中だけから聞こえる。目の前に立っているのは、新しい調査員だ。
「なんだいじゃないですよ、どうしたんです急に叫びだして」
 肩に置いた手がふるえている、おびえているのか、それとも笑っているのか、今の私にはわからない。
「叫んだ?私が?叫んでいたのか?」
「ええ、大きな声で、おお、おお、おお、って」
「そうか、つぶやくように漏らしていると思ったが、叫んでいたのか」
「……教授、脅かさないでください」
 肩をつかんだ手から、力が抜けた。君は独身だったかな。
「君は独身だったかな」
「えっ、それは、まあ、そうですけど」
「私には妻がいた、今はもういないが、ここへは二度、妻と来たことがある」
 私は歩き出しながらぶつぶつと喋り続けた。歩いていなければ気が狂ってしまいそうだった。歩いていても気が狂ってしまいそうだった。歩いているのに気が狂ってしまっていた。
「ここに、ですか」
 君、どうしてそんなにふしぎそうな声で
「おかしいかね」
「おかしいというか、教授はこの星に何度も来られているから慣れているのかもしれませんが、私にはどうも……」
「どうも?この紫の空が?黒い雲が?銅の沼が?血赤色の河が?」
「……ええ、まあ」
「予算は出ているのだから、君はただ通例通りに報告書を書けばいい」
もちろん!仕事は仕事です、しかし、個人的な感想を言わせてもらえば、この星は……あまりに、奇妙だ」
 私は腹を立てて/カッとなって/いたずら心で/無意識に、調査員の首に手を伸ばし、スーツの消音スイッチをオフにした。
 しばらく黙って立っていた調査員は、数秒でひざをついて、ヘルメットをひっかき出した。これは愉快、しかし殺してしまうわけにはいかない。私は消音スイッチをオンにした。
「……いったいどういうつもりですか?」
 息を整えながら、調査員が叫んだ。別にヘルメットを脱がせても良かったんだがね
「銅の沼に棲んでいる鉄蛙の鳴き声だ。聴くのは初めてだったかい?」
「サンプルを聴かされましたよ、あれでも相当なものだったけど……苦い!味のする音って何なんです?……苦い!」
「脳に作用しているだけで、本当に味がしているわけじゃない、いや、本当の味?脳が体験しているなら、それは本当に味のする音ということだよ」
 調査員が立ち上がって肩をすくめた。私はふたたび振り向いて歩き始めた。後ろから声が
「教授、もう結構です、予定の時間には早いけど、そろそろベースに戻ろうかと思うんですが」
「君はなぜ私がこの星に留まって研究を続けているか、知っているかね」
「……奥さんが、この星で亡くなられた、と報告書には」
 私は振り向きざまに拳を叩き込んだ。顔面部分を覆った遮光板が虹色に変わり、またふたたび緑色に落ち着いた。腰を抜かした調査員は、私を見上げている。
「本当のことを言いたまえ、知らないのは私の方だ、なぜ予算は毎年出続ける、なぜ毎年何の調査もしない調査員がこの星へやってくる、この星には何もない!不毛の星だ!……なぜ私は生かされている」
「……知らない……私は、知りません……」
「無駄だ、まわりを見なさい」
 大きな木が、あたりを覆っていた。橙色の幹には繊毛が蠢き、白い葉脈を持った大きな葉が垂れている。私は染色スプレーをかかげ、言った。
「この星の昆虫だ、赤く染めれば君はそれだけで行方不明になる、死体は見つからん、それでもいいかね」
 しばらく口ごもり、ぼそぼそと調査員は喋り始めた。
「……あなたの、奥さんが消えたという報告があったのと、あなたの報告に矛盾が現れはじめたのが、十年前だった」
 財団はこの星の資源に見切りをつけた、調査団は引き上げが決定し、教授夫妻にも辞令が下るはずだった。しかし上層部が教授の報告に注目した。この星には、利用価値がある、そう判断した。
「確かにこの星の生態系には奇妙な点がいくつか存在する、だがそれだけで財団が動くかね」
「そうじゃない……あなたは私をどこに連れて行こうと?」
「クレバスだ、その奥には妻がいる……私が殺したんだ」
「その通り、あなたは奥さんを殺し、その罪を悔いて、この星で自殺した」
 緑色の遮光板が、黙って私を見つめていた。遮光版に写る私の影に、黙って私を見つめる調査員の影が映りこんでいる。その影に映った私が
「自殺?……私が……死んだ?」がりがりと咽が鳴った。
「クレバスの奥へ行きましょう、教授」
 森を抜けると、乳白色の崖が切り立っている。その中にある亀裂のひとつへ、私は吸い込まれるように入っていった。奥へ向かう、そこには妻がいる。血赤色の石灰に似た成分が妻の身体を覆い、飴色の彫像に仕立てているのだ。私は次第に早くなる鼓動/足/息/をととのえながら、奥へ向かった。
 亀裂の奥底に、妻は眠っていた。生きていたときと同じように、飴色の膜に包まれて。
 ふるえながら近づく私の背後から、調査員が声をかけた。
奥さん、目を覚ましてください、さあ、まぶたを開けて」
 私は、膜の向こうにいる妻が、ゆっくりと目を開くのを見て、立ち止まった。
 唇が何かを探しているように開き、膜の内側が曇った。
「何をした?」
 私は妻を見つめながら、調査員に問いかけた。彼はゆっくり私の隣に立ち、こう言った。
「やはりあなたには、そこに奥さんが見えるのですね、そして緑色のスーツ越しに、今立ち上がろうとしている奥さんの腕が、あなたに触れる」
 しわのよった緑色の遮音スーツに妻の手が触れ、私は絶叫した。
 膜の中で妻が破裂した/膜をベリベリと引き裂いて妻が巨大化した/膜の向こうの妻がガス状になって消えた/妻が私の腕をつかんだ/妻の首を私の腕が捻った/妻の唇が私のヘルメットを砕いた/笑顔の妻が私を抱きしめた/私は何度も絶叫した、全てが同時に起こっていた。
 バチンと大きな音がして、静寂が戻った。
 目の前には何もなかった、ただ乳白色の壁に飴色の薄膜が落ちていた。
 呆然とした私に、妻が言った。日がかげり、緑色の遮光版から、その心配そうな表情が透けて見えた。
「消音スイッチがオフになっていたわ、大丈夫?あなた……」
 私はそっと遮光板を拭くふりをして、手首の時計を盗み見た。十年前、あの日、あの時間、いや、十年など経ってはいなかったのか、味のする音、脳の見た景色、消音スイッチ。
「何でもない、少し強い刺激を受けただけだ、まるで、長い悪夢を見ていたような」
 私は妻の肩に手をまわし抱き寄せ、妻は私の背に手を回した。
 私はそして、彼女の首筋にある消音スイッチをオフにした。