絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

稲田朋美衆院議員が知るべきこと。

 芸術というものはまったく変なものだ。
 まず「うそをついていい」という最初の決まりがひどい。これは小説や映画に顕著だが、どれだけうまくおおきなうそをつくか、というのが見所だったりする。まあ芸術も、現代芸術とかいうやつは「価値創造」などとは言うが結局は「信長さま4才時の頭骨でございます」とあまり違いない。技術は全てうそのためにあり、映画の項でも書いたがおれたちはちらつく光と影を見て泣いたり笑ったりするのである。
 もちろん、そこが素晴らしいのだ。素晴らしいけれども、米を作ったり、茄子を作ったり、家を作ったりすることに比べては、とても威張れたものではない。余暇に人生を賭けるから、芸術家は「変な奴だが面白い」と言われて生きていけるのである。他の誰がくだらないことに一生を費やせるか、ほとんどの者が日々の糧を得るために芸術を捨てるのだ。
 おお、俳優というのはもっとひどい。うそをつくうえに、そのうそは自分の言葉ではないのである。これはまあ小説の世界で言うらしいのだけど「まず他者の言葉で語れ」というのがある。何で読んだかは忘れた。卑近に解釈すれば「自分の口から出た言葉を妄信するな」とかそういう意味だろう。小説なら手か。
 余談だが、昔からやっているシンガーソングライターのかたの多くは、楽譜を手前に置いて歌う。それは、勝手にその場の気分で曲を作り変えたりしないように、そうしているのだ。歌うという行為もまた、他者の言葉を利用するという行為である。だから自分で作った詩や曲を、一度自分のものではなくするために、楽譜に変えて外在化するらしい。もちろん完璧に再現できるなら楽譜は必要ない、ダンスや芝居は楽譜(もしくはそれに類するもの)の存在によって表現形が変化してしまうから、そういうものは使わないが、やはり勝手に変えていいものではない。どうやらその辺に「演じる」ということの本質があるように、おれは思っているようだ。
 本題に戻る。芸術や文学というものは、うそでできている。人間にはうそをつく機能がもともとあって、それをうまく利用したのが芸術や文学だ。
 だから下手なうそをついている奴を見ると、ああこいつは鍛錬がなってない、と思うのである。そういう連中が「芸術は良いものだ」と勘違いして、エリート育成のどうのと言い出すのだ。ひとの言葉を自分の言葉と勘違いして、垂れ流すのだ。うそをつくにも訓練が必要なのだ、なめるな。