絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『老人と杖』

 私の家は西新宿にある、といっても都心たるビル街ではなく、坂を下ったところにある、潰れかけた二階建ての長屋だ。南向きの窓からは、豪奢な都庁舎が見える。私には関係のないものだが。
 私は貧しく、力もなく、能力もない。コンビニエンスストアや、ファーストフードで並んでいると、傍若無人な若者が割り込んできて、前に並んだりする。そういう若者は、細くて、長くて、黒くて、怖い。自分たちより弱そうな者がいれば、それを食う。そういう感じのする、香水臭い若者たち。
 そんなとき、私は、こう思う。
「ああ、下品な場所で食事を摂ろうとするから、こんな罰を受けるのだなあ」
 口に出して言うときもある。
「仕方がない、こんな下品で低劣な場所で食事をすれば、下品で低劣な人間に邪魔をされるのだ」
 高級な喫茶店や、まともな料理店で食事をすれば、入り口に立った私は席に案内され、やってきた給仕に注文をすることが出来る。高い料金は「不愉快にならない」ための対価だ。
 私はそうやって、貧しい生活をしながら、そのような苦界で食事をせねばならぬ自らの身を恥じている。割り込む若者に怒鳴り散らしたところで、我が身は救えないのだ。
 今朝、コンビニでレジの列に並んでいると、汗臭い若者が、度し難き乱暴さで私を押しのけて、飲み物を買おうとした。
 私は右足が悪く、杖をついている、老いぼれだ。押されたときに落とした杖は、カラリカラリと音を立てて転がった。
 驚いて、私はその若者を見た。表情のない顔からは、苛立ち以外に、何の感情も読み取れはしなかった。私のことなど気づきもしないで、ただ身の回りの不快感だけを、感じているかのような顔。
 彼の感じている不快感の原因は、洗ったあとで放置しておいた衣服から発する、雑菌の繁殖した汚らしい臭いと、皮膚の上にぬるぬると溜まった垢と、そして老人を押しやってレジに向かうその行動なのではないか。
 私がそう考えて、怒りを鎮めようとしていると、後ろに並んだ男が、杖を拾って渡してくれた。黒い服を着た男は無表情のまま、若者を凝視している。男の顔は深紅に染まっていた。瞳は赤く、縦に裂けていた。私は何も言うことができず、口をただぱくぱくと動かした。
 男は、私に向かい、かすれた声で、こう言った。
「やっておしまいなさい」
 体の奥底で何かが爆発した。煉獄の焔が股間の一物を燃えたぎらせた。金玉がひきあがり、ギュッと閉まった肛門から脳天までが、赤く灼けた鉄の棒を差し込まれたようにしびれ、全身に鳥肌が立った。私の背筋はメリメリと音を立てて伸び、たるんだ顔の皮には血が巡り、熱く煮えた息が口から漏れた。
 私は杖を握りしめ、大きく振りかぶり、若者の後頭部に叩きつけた。何度も何度も叩きつけながら、このような苦界に生きる我が身の不幸と、若者の不幸を呪った。
 この世界は私が作ったのだ、私が何も言わないからこの世界はこうなったのだ、私が耐えてきたことは何の意味もなかったのだ、この若者を作ったのは私だ。
 この若者は私だ。

 生まれて初めての暴力だった。
 私は失禁していた。
 何度も何度も何度も何度も打ち付けていると、次第に腕に力が入らなくなった。頭から血を流し、うずくまっている若者を見ると、杖を打つ気力も萎えた。私は杖をおろした。
 私は若者に言った。
「お前が、苛立ちを感じている相手は、私じゃない。私が苛立ちを感じている相手がお前ではないように」
 若者は答えた。
「きちがい、警察」
 私は、微笑んだ。
「そうだ、私はきちがいで、お前は警察に行くべきだ。それが秩序というものだし、秩序は守られねばならない。私はこの国が下品で低劣な苦界であるとは思わない、だからお前は対価を私に支払った、そうだろう?私もいつか対価を支払うだろう、だが今はそのときではない」
 若者はうごかなくなった。
「フム、なるほど、これが暴力か」
 私はコンビニエンスストアを出た。
 本当に暴力を振るわねばならぬ相手に、杖を打ちつける為に。
 もう二度と通らぬ道を、私は一歩ずつ歩み始めた。

*1

*1:この物語はフィクションです、実在の人物、団体、石原慎太郎とは一切関係がないでもないですが、基本的にはないです。