絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

いま、小学校へ通っているぼくへ。

 やあ、ぼく、久しぶり、元気?
 今日は君に――いつも想像している30才くらいの私ではなくて。10才くらいの君に――わかっておいて欲しいことがある。これは私よりもっと年上のひとが考えたことや、私たちよりもっと昔の時代のひとが考えたことだけど、いまでも充分通用することだ。

世の中には、自分の正しさを疑えないひとがいる。

 正しいってなんだろう? 辞書によれば「まっすぐで歪んでいない」「事実に合っている」「道徳、法律、作法などにかなっている」と書いてある。
 この三つは、全部違うことをしめしている。
「道徳、法律、作法」というものは、時代や場所によって、変わってしまうものだ。学校では制服を着なきゃいけなかったり、上履きを履かなきゃいけなかったりするけど、よそじゃそんな決まりは関係ない。江戸時代はちょんまげに着物が正装だった。
「事実に合っている」というのは、たぶん科学的にはかなり正しいと言い切れないこともない、という意味だ。事実は不変だけど、それを見る人間の目は不変じゃない。
「まっすぐで歪んでいない」というのが一番「正しい」と言ったときに想像するものじゃないだろうか。だけどこれは「そうだといいなあ」というくらいのことでしかない。人間は想像の中でしか、まっすぐで歪んでいないものには出会えない。
 三つとも、全部違うことをしめしている。なのに、この三つを一緒に考えてしまうひとが、世の中にはいる。昔の私がそうだし、今でもよく間違える。
 そのひとはきっと、こう言うだろう。
「この理屈は道徳的で正しいから従わなければならない」
「この考えはまっすぐで歪んでいないから事実に合っている」
「まっすぐで歪んでいない生活をして道徳的に正しくなろう」
 うん、これは間違いだ。どれも一緒にしちゃダメだ。

正しいという言葉は、軽々しく使っていい言葉じゃない。

 なんだ、じゃあ世の中に正しいことなんてないんじゃないか、自由にやろうぜ、ロックンロール!
 と、早合点するのはちょっと待ってほしい。
 それでもやっぱり、正しさというのは必要だ。それは誰のものでもない、君にとっての正しさだ。
 君は牛乳が好きか嫌いか。もし好きなら、牛乳を嫌いな友達のことをどう思うか。もし嫌いなら、牛乳を飲めと言ってくる先生のことをどう思うか。
 君は自分の考えを正しいと思うだろう。同じように、友達や先生も、自分たちの考えが正しいと思っている。だからどうしても、牛乳に関する意見は、対立する。
 対立したときに、君も友達も先生も、きっと自分の正しさが、一番だと思うはずだ。だからいっしょうけんめい、自分の方が正しいということを、言い合うだろう。
 でもその時に、君が言うなら、どっちの方を選ぶかな。
A「牛乳は牛の乳だから、人間には合わない、飲まない方がいい」
B「なんかくさい、のみたくない」
 なんとなくAの方が正しいことを言っているように見えないか。
 でも私はね、Bの方が、正しいと思う。それはなぜかというと「牛の乳だから人間には合わない」かどうか、私にはわからないからだ。
 だけど、君が牛乳を「のみたくない」と思ったことだけは、たぶんかなり正しいと思って間違いない。君がとんでもないうそつきでなければ、おそらく本当だ。
 だから私も、うそをつかないようにしよう、昔はたくさんうそをついたからね。
 もし私がいま、君の先生なら、こう言うだろう。
A「牛乳は体にいいから飲みなさい、背も伸びるぞ」
B「いいから飲め」
 牛乳を飲むことが本当に正しいかどうかは別として、私はたぶん仕事として、君に牛乳を飲ませなきゃならない。だからやっぱりAの方が正しいっぽく見えるけど、Bを選ぶだろう。
 その時に、ただそう言うだけじゃなくて、こうやって理由を話しあえればいい。
私「牛乳を飲め、飲ませるのが私の仕事だから、飲まないと困る」 
君「だけど牛乳はくさくてのみたくない、どうすればいい?」
 議論というのは、ここから始まるものだと、いまの私は思う。
 このときに、お互いが、理由を説明しないで、正しさだけをぶつけあったら、どうなるだろう。
私「牛乳を飲め、飲まないと叩く」
君「いやだ、飲まない、飲んでも吐く」
 これじゃ、どちらも悲しい。牛乳だってもったいない。
 だから、とりあえず「正しい」かどうかは、置いておこう。
 「正しい」ということは、もっと君にとって大切なときに、使うものなんだ。

「正しい」の正しい使い方。

 君にもいつか、好きなひとができるだろう、もういるのかい? それは大人だな。さあ、その好きなひとが、ひどい目にあったと想像してごらん。そのときに、君はどうする? ひどい目にあわせた奴と戦う?好きなひとと一緒に逃げる?隠れて力をつけて、いつかやっつける?
 そう、君が読んでるマンガで、いつもやってることだ。マンガとは違うけど、ずっと生きていると、いつか自分の正しさを選ばなきゃならないときが来る。その時何を選ぶかは、君の生き方が決める。
 私はずいぶんと適当に生きてきたから、とてもかっこわるいことしか選べなくなってしまった。
 だけど君は、まだあまり……私に比べたら、まだ悪いこともひどいこともしてないだろう。だから、きっといつか「正しい」ことができるし、それを自信をもって選べる。
 どうか、その時のために、君にとっての正しさは、大切にとっておいてほしい。牛乳を飲むか飲まないか、なんて議論で、ムダに使わないでほしい。
 世の中には、自分の正しさを疑わないひとがいる。
 そんなひとと出会ったら、どんなにそのひとが間違ったことを言ってても、それが君の正しさをぶつけるべき相手かどうか、よく見て考えよう。もしそんな価値がなかったら、君はそんなひとのために、正しさを使う必要なんてないんだ。
 もっと大切なときのために、自分の「正しい」はとっておこう。
 私のように間違って使ってしまい、あとで後悔しないためにね。