絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

トンデモに騙されないテクニックとは。

要約:専門的な知識がないときに、トンデモとそうでないものを見分ける技術。
池田信夫 blog:愛国心の進化
まず、この文章は三段に分かれます。

毎年この季節になると、靖国神社をめぐる不毛な議論が繰り返される。
(中略)
このような愛国心を作り出すことに成功した国家が戦争に勝ち残るのである。

と、愛国心について書いた一段目と

こういう利他的な行動を遺伝子レベルで説明するのが、群淘汰(正確にいうと多レベル淘汰)の理論である。
(中略)
愛国心(利他的なミーム)が機能するのは、国家間で争いが激しく、国内ではあまり激しくない場合に限られる。

 と「遺伝子レベル」での愛国心について書いた二段目、そして話がミームにズレた結論部分です。
 結論に至ってわかるのは、二段目がなくても、この文章は意味が通るということです。つまり、間を抜いても文章としての意味が通る。

毎年この季節になると、靖国神社をめぐる不毛な議論が繰り返される。メディアでは、首相の参拝に反対の意見が多いが、世論調査では逆だ。特に若い世代では、70%以上が賛成している。これは「中国や韓国が介入するのは許せない」という感情的な反発によるものだろう。
(中略)
こういうナショナリズムは感情の問題だから、論理的に説得するのは無駄だし、「アジアの国民感情」を理由にして封じ込めようとするのは、かえって反発を強めてしまう。その感情は、靖国神社のようなシンボリックな装置によって演出されるものだから、散文的な「国立追悼施設」は代替策にはならない。むしろ小泉氏が引退して、安倍氏が参拝しなければ、問題は自然消滅するのではないか。いま日本が、中国・韓国と本当の意味で争う理由はないからである。

 これが、トンデモとそうでないものを見分ける、一番大切な部分です。
 この筆者が言いたいことは「小泉氏が引退して、安倍氏が参拝しなければ、問題は自然消滅するのではないか」ということであって、多レベル淘汰がどうとかいう話はどうでも良いのです。もし、多レベル淘汰がこの文章にとってものすごい大切なことなら、上記中略文は意味が通らなくなるはずです。それに、どうしても多レベル淘汰を話にからめたいなら「(ミームとしての愛国心は環境が変化すれば消えるのだから)問題は自然消滅するのではないか」と書くことも可能ですけど、それは「(人の気持ちは変わるのだがら)問題は自然消滅するのではないか」と書いているのと同じです。
 これでは、進化論の理解度について質問すると、的外れな返答が返って来てしまうのも、当然です。なぜなら、池田氏にとって、進化論は全然重要じゃないからです。この文章がトンデモあるかどうかを検証することと、池田氏が進化論を理解しているかどうか、という問題は、まったく関係がないのです。重要なのは、なんでこの話に進化論が絡んでくんの?という質問をすることです。
 以下は、進化論の解釈として間違っているという指摘に対する、池田氏の反論の引用です。
利他的な遺伝子

しかし1990年代になって、ハミルトンの理論で説明できない現象が報告されるようになった。中でも有名なのは、細菌の感染についての実験である。細菌が宿主に感染している場合、その繁殖力が大きい個体ほど多くの子孫を残すが、あまりにも繁殖力が強いと宿主を殺し、集団全体が滅亡してしまう。したがって、ほどほどに繁殖して宿主に菌をばらまいてもらう利他的な個体が生き残る、というのが新しい群淘汰(多レベル淘汰)理論による予測だ。これに対して血縁淘汰理論が正しければ、繁殖力が最大の利己的な個体が勝つはずだ。
これは医学にとっても重要な問題なので、世界中で多くの実験が行なわれたが、結果は一致して群淘汰理論を支持した。繁殖力の強い細菌の感染した宿主は(菌もろとも)死んでしまい、生き残った細菌の繁殖力は最初は強まるが後には弱まり、菌の広がる範囲が最大になるように繁殖力が最適化されたのである(Sober-Wilson)。

 たぶん、想像するに、池田氏にとってはイデオロギーというものは、細菌と同じものなのでしょう。私は、イデオロギーと細菌は似ているけど、たとえ話以上には似ていないと思います。
 重要なのは、なぜ池田氏似ているものを、まるで同じものであるかのように書いたのか?ということです。具体的に言うと、愛国心という具体化しづらいものを、二つの記事にわたって、具体的な話にズラしたのはなぜか、ということです。
 専門的な知識がないときに、その文章がトンデモであるかどうかを見分けるためには、その文章が扱っている題材が具体化できるものかどうかをまず確かめてください。次に、その題材を分析する方法が具体的な話かどうかを見てください。
 もし具体化しづらいものを具体的に分析していたら、それはトンデモである可能性がとても高いのです。ちなみにこの文章は、具体化しやすいもの(完成された文章)を具体的(引用して並べる)に分析しているので、当たり前の話をしているだけのように見えると思います。おそらく、人間が認識できるレベルの世界のほとんどは、要約すると当たり前の話になるからです。
 そう、科学というものは、人間が認識できないレベルの具体的な話を、認識できる具体的な形に直す作業であるとも言えます。トンデモは、日常の当たり前の具体的でない出来事を、科学的なよそおいで認識しづらい具体的な形に直す作業なのですね。
 さて、池田氏の当該文章は、どちらでしょうか?考えてみてください。