絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ひとかたまり

 筒井康隆の『玄笑地帯』が本棚からごろりと転がり落ちて来たので今日はその話を書きたい。本はばさりと落ちるのではないかと思う向きもあろうが、わが宅の本棚はその前にうずたかく本が積み重ねてあるために本棚から落ちた本はばさりとなるまえにごろりと転がる。これが分厚い本であればごとりと倒れるわけだがあいにく分厚い本はそうそう本棚からその位置を変えたりはせぬ。いきおい軽い本はよその本をとろうと手をのばせば何の加減かごろりと落ちる。ごろりかばさりかどちらにせよ本棚から本が落ちる状況というものをどうにかしたいと思うものの、すぐにでも片付けて本棚をあと二つ三つ買って全て整理したうえで必要ない本を処分して、などという行動を起こすには、本が落ちるという事実だけではいまひとつ切迫感に欠ける。テレビを最後に捨てたのが10年前で、以来テレビで放送される番組をリアルタイムで見ることが滅多にないのだが、それでも周辺情報から現在のテレビ状況について知ることができる以上見たいとも思わない番組を見る必要はないなあ、などと思うのに似ている。私、テレビ見ませんよ、私にテレビ見させたらたいしたもんだ、という奴である。ところで、と書きながら話が変わるのではなく戻るところが我ながら驚きなのだが、それはともあれ、ところで、筒井康隆の『玄笑地帯』である。私はこの本を第四刷で買ったのだが、その発行が1988年7月10日、およそ19年前であり、現在私が30才。ということは11才でこんな本を読んでいたわけである。こんな本を読んだ奴がロクな奴に育つわけがないという言葉があるとすれば私の存在は隠しておいた方がいい。確実な証拠になるからである。ちなみに何度か書いているが、初めてエロを意識したのは筒井康隆の『農協月へ行く』とつげ義春の『ゲンセンカン主人』であり、こんな本を本棚に残して出奔した父は今頃どこでノたれ死んでいるのか知らんがロクな死に方はしていないに違いない。生きていても地獄であろう。さて本題に戻るがこの本の冒頭から数回筒井康隆は「血液型B型の欠点」「B型のミュージシャンとなると」などと平気の平左で書いており、私の占い嫌いは筒井由来ではなかったのかと驚いた。だが読み進めるとまたもや平気で「あいにく匿名なのでどこのどいつかわからない、ところが迂闊にもこの者、自分のネーム入りの便箋を使用している。便箋の端にコクヨと印刷してあるのだ。どうやら女性らしい」などと書いていて正気を疑わせる。誰の正気か、もちろん私の正気だ。実は結論として「私もこれからは占い嫌いなどと言わずに血液型の話などで人気取りをしよう」と書くつもりだったのだが、冗談にしても頭がおかしいと思われては損である。『玄笑地帯』は毎回原稿用紙七枚と五行及び十五文字で書かれており、この項もそのデンに習いたかったのではあるが、これが現代文明社会の悲しさで文字数を別途カウントせねばならぬ。そもそも筒井康隆が原稿用紙七枚と五行及び十五文字で原稿を書いていたのは文字数を数えやすいからであって、それを真似する際に何がしかのソフトを立ち上げてコピペって文字数をカウントしてしまっては本末転倒にも過ぎるというものだろう。よってこの項はだいたいこんなもんだろうと思ったところで終わる。およそブログに限らずweb上にある文章で厳密に文字数を数えたものなどあるわけもなく、文字数に縛られないのがwebの良いところだと愚痴が出るのは6000文字プラス図版の原稿を仕上げなければならない〆切が迫っているからなのだがこれがおそろしいことに一行も進んでおらぬ。仕方がないから血液型の話でも好意的に書いて人気取りをしようかと思ったがあいにくとテーマは伝えてあって広告にも出るらしいので困るなどとここまで読み進めた変態の中でも私に敵意を抱くものはいないだろうから安心して書くが同人誌の話であってちっとも商業主義者にはお金をもらったりできない現状は相変わらず続いている。金がない金がないなどと書いていてもちっとも金などもらえないのではあるが、この前どこかのブログがRPGツクールではてなダイアリーRPGを作るといったらポイントで千円もらったというのを読んで心底、いやその話はどうでもいい。先日お付き合いしている方から電話があり「お前の買った本が150冊ほど我が家にあるが引き取りに来ないなら捨てる」と言われたので泣く泣く着払いで送ってもらおうかなどと話したのだが、いったいどういう仕組みでそんなことになったのか見当もつかない。その方との付き合いはもう五年になるのだが、どうやらこのような仕組みらしいという推測をたてた。私はかばんを持っていない、事情を話すと長くなるのだが簡潔にいうと面倒くさいからである。かばんが便利であることは疑いないが、そのかばんを入れるかばんがあればいいのにと妄想する毎日だ。そこでかばんを持っていない私ではあるが、頭がおかしいわけではないので何でもかんでもポケットに入れて済ませることはしない。例えば本を買えば「手提げに入れてください」と言うしコンビニへ行けば「袋は一緒でいいです」などと答える次第である。そこで手提げ袋に入った本を読みながら前述した方と会うことになると、先方は当たり前のようにかばんを持っている。私の手には手提げ袋。これはもう否応なしに「君、この本をしばらく預かってくれないか」と頼むことになるわけである。もちろんこの場合の「しばらく」というのは食事をしてマンガの話をして家に帰るまでの間を指したものなのだが、惜しむらくは帰路の途中で私が本のことをスッカリ忘れてしまって思い出すのが家に帰ってからであることだ。結果知人の家には私の買った本がうずたかく積まれることになる。しかしそれらの本は私の手を離れて知人の家にあり、あまつさえ私が一読もしていないことさえあると聞くに及んでそれらの本はもはや知人のものではないか、捨ててはならぬ、ものは大切にしなさいと説得するも、私が取りに行くか着払いで送ってもらうほかはなく、すぐ捨てるとぬかす。困ったもんである。ふと部屋を見渡せば別の知人に借りた本、CD、その他さまざまなものがうずたかく積みあがっており、私は勝手に捨てたりはしないのになあ、などと優しい気持ちになっていたのだが、よくよく考えてみるとこの様子はほとんどゴミ屋敷である。そこで私は片付けようと読んでいた『玄笑地帯』を掴んで本棚へ進む、手を伸ばしてエイヤッと本棚の隙間に本を戻すとごろり、またもや別の本が落ちるのであるがその件についてはまた明日書きたい。