絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

飛翔・快感・感覚移入

 せっかくの正月だし、自分にお年玉、という感覚でおもちゃを買った。

エアソアラ
室内で手軽に操作可能なコントロール飛行機。わずか約3.5g、全長約17cmという、軽量かつミニサイズ。専用の赤外線コントローラーを使い、室内で上昇や下降、左右旋回といった本格的な飛行が楽しめる。

エアロソアラ ミリタリーグリーン (Aバンド)

エアロソアラ ミリタリーグリーン (Aバンド)

 誰もいないスタジオで飛ばした。最初はフラフラとゆれて、すぐに墜落してしまったけど、しばらくすると手を離すタイミングや力などを適切なポジションに定めることができた。
 びぃーんと鳴るプロペラ。指のあいだにはさんだ発砲スチロールの機体が、すーっと空気に乗ってすべっていく。壁にぶつかる前に左旋回、電磁石で動くラダーがぴくぴくと反応する。機体が下がってきたら、コントローラーのスロットルを調節して上昇させる。このコントロールによる快感は、おそらく他のなにものにも代替が効かないのではないか。そして20数秒が過ぎ、出力の弱まった機体がゆっくり床へ降りていく。
 先日のJET-MANを見て気になっていたこと、そして友人が言っていた「世の中には二種類の人間がいる、動くものが好きな奴と、そうでもない奴」という言葉の意味が、少しわかった気がした。
 私は動くものが好きだけど、それは私自身がそう動きたいと願うからなのかもしれない。
 余談。理想として「優れた作品は全ての人間が楽しめるはずだ」とは思うが、実際には無理な話だ。もしかしたら、その理由は「選ばれていない」ことよりも「選ばれすぎる」ことにあるのかもしれない。その作品が自分の感性を刺激しない場合や、その面白さを体感できない場合、ひとは「選ばれていない」と感じてしまう。それはつまり、なんらかの作品が自身の理想と合致しすぎる(選ばれすぎる)ことがあり得るからなんじゃないのかしらん。
 ええと、飛ぶ話だった。「空気の上をすべる」という感覚は、人間本来のものではない、と思う。もちろんさかのぼれば水の中で泳いでいたご先祖様の話に近くなるんだが、だったら水にもぐればいいわけで(その楽しさも知っているけれども)、空を飛ぶということに関しては起源がわからない。
 ああ、つまり起源などない、という話がしたいのだった。
 進化論の面白いところは、無駄な部位でも邪魔でなければ残る、ということろだ。普通「進化」という言葉は「進歩」「成長」と同一視されていて、便利になることを指して「技術の進化」と呼んだりする(ナントカ進化論、とかね)。でもこの用法はある部分で間違いだ、なぜなら進化というシステムは不要なものでも生存の邪魔にならなければ残すし、不便なシステムでもそれでなんとかやっていけるならそのままにしておくからだ。
 人間は空を飛びたがったり馬より早く走りたがったり海に潜りたがったりする。それはただ便利だからではなくて、気持ちいいからだ。ではなぜそれが気持ちいいと知っているのか、気持ちいいと感じることができるのか。危ないかもしれないのに、死ぬかもしれないのに、人間は飛んだり走ったり潜ったりするようにはできていないのに。
 でも、その無駄に見える機能が、人間を走らせ、飛ばし、泳がせた。車を、船を、飛行機を作らせた。技術は進化しない、それには一定の方向があって、無駄や余剰は即、死につながるからだ。技術はただ進歩していく。私はこうして進歩した技術が、進化した人間の余剰部分に快楽を及ぼす、というところを愉快に思う。エアロソアラちょう楽しい、モーターちょう小さい、ラダー部分がスピーカーも兼用してる、やばいかっこいい。