絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

うーんすごい、閑居して不善をなしすぎる(私が)。

 先日の被害妄想騒ぎ(私が騒いでただけ)は、相手方のコメント削除という結果に落ち着いてしまったので重ねて書きますけど、私が悪いんですからね。私が相手のコメントから悪意を勝手に感じ取って、ショックを受けて、騒いで、鎮まって、謝った、ってことであって、相手方が何かトンデモないことを書いていたわけではないです。
 で、話は変わるんですが、mixiで議論した(最悪だこのひと)。
 なんかここ数日興奮しているのはですね、原因はわかってるんですよ。

果てしなき渇き

果てしなき渇き

 これを読んでるからだ!(ほんと最悪だこのひと、深町さんのせいにするつもりですかよ)
 これを読んでいると、血が沸騰し、体温が上がり、瞳孔が開き、打鍵速度が増す。
 実際脚本仕事やってて一晩で直し終了したもん、いや、荒いけど、この刺激で。
 まだ読んでないひとは、本当に読んでほしい、これは、すごい。
 で、mixiの議論ですが、これもある意味すごい。終わってないんだけど、一歩も進んでない。
麻草「○○が××で▽▽ですよね」
相手「意味わかんない、□□ってこと?」
麻草「(違うけど)意味わかんないって言われてもな…」
相手「ははぁ、質問には答えず印象操作、カスですな」
麻草「(うわ、もう一回説明すんのかよ)えー、ですから○○が××で…」←今ここ
と思って今見たら少し進んでた。
相手「○○が××?意味がわかりません、具体例をどうぞ」
ギャッ!
さあて、次はこれを読むぞ!
ヒステリック・サバイバー

ヒステリック・サバイバー

いま、小学校へ通っているぼくへ。

 やあ、ぼく、久しぶり、元気?
 今日は君に――いつも想像している30才くらいの私ではなくて。10才くらいの君に――わかっておいて欲しいことがある。これは私よりもっと年上のひとが考えたことや、私たちよりもっと昔の時代のひとが考えたことだけど、いまでも充分通用することだ。

世の中には、自分の正しさを疑えないひとがいる。

 正しいってなんだろう? 辞書によれば「まっすぐで歪んでいない」「事実に合っている」「道徳、法律、作法などにかなっている」と書いてある。
 この三つは、全部違うことをしめしている。
「道徳、法律、作法」というものは、時代や場所によって、変わってしまうものだ。学校では制服を着なきゃいけなかったり、上履きを履かなきゃいけなかったりするけど、よそじゃそんな決まりは関係ない。江戸時代はちょんまげに着物が正装だった。
「事実に合っている」というのは、たぶん科学的にはかなり正しいと言い切れないこともない、という意味だ。事実は不変だけど、それを見る人間の目は不変じゃない。
「まっすぐで歪んでいない」というのが一番「正しい」と言ったときに想像するものじゃないだろうか。だけどこれは「そうだといいなあ」というくらいのことでしかない。人間は想像の中でしか、まっすぐで歪んでいないものには出会えない。
 三つとも、全部違うことをしめしている。なのに、この三つを一緒に考えてしまうひとが、世の中にはいる。昔の私がそうだし、今でもよく間違える。
 そのひとはきっと、こう言うだろう。
「この理屈は道徳的で正しいから従わなければならない」
「この考えはまっすぐで歪んでいないから事実に合っている」
「まっすぐで歪んでいない生活をして道徳的に正しくなろう」
 うん、これは間違いだ。どれも一緒にしちゃダメだ。

正しいという言葉は、軽々しく使っていい言葉じゃない。

 なんだ、じゃあ世の中に正しいことなんてないんじゃないか、自由にやろうぜ、ロックンロール!
 と、早合点するのはちょっと待ってほしい。
 それでもやっぱり、正しさというのは必要だ。それは誰のものでもない、君にとっての正しさだ。
 君は牛乳が好きか嫌いか。もし好きなら、牛乳を嫌いな友達のことをどう思うか。もし嫌いなら、牛乳を飲めと言ってくる先生のことをどう思うか。
 君は自分の考えを正しいと思うだろう。同じように、友達や先生も、自分たちの考えが正しいと思っている。だからどうしても、牛乳に関する意見は、対立する。
 対立したときに、君も友達も先生も、きっと自分の正しさが、一番だと思うはずだ。だからいっしょうけんめい、自分の方が正しいということを、言い合うだろう。
 でもその時に、君が言うなら、どっちの方を選ぶかな。
A「牛乳は牛の乳だから、人間には合わない、飲まない方がいい」
B「なんかくさい、のみたくない」
 なんとなくAの方が正しいことを言っているように見えないか。
 でも私はね、Bの方が、正しいと思う。それはなぜかというと「牛の乳だから人間には合わない」かどうか、私にはわからないからだ。
 だけど、君が牛乳を「のみたくない」と思ったことだけは、たぶんかなり正しいと思って間違いない。君がとんでもないうそつきでなければ、おそらく本当だ。
 だから私も、うそをつかないようにしよう、昔はたくさんうそをついたからね。
 もし私がいま、君の先生なら、こう言うだろう。
A「牛乳は体にいいから飲みなさい、背も伸びるぞ」
B「いいから飲め」
 牛乳を飲むことが本当に正しいかどうかは別として、私はたぶん仕事として、君に牛乳を飲ませなきゃならない。だからやっぱりAの方が正しいっぽく見えるけど、Bを選ぶだろう。
 その時に、ただそう言うだけじゃなくて、こうやって理由を話しあえればいい。
私「牛乳を飲め、飲ませるのが私の仕事だから、飲まないと困る」 
君「だけど牛乳はくさくてのみたくない、どうすればいい?」
 議論というのは、ここから始まるものだと、いまの私は思う。
 このときに、お互いが、理由を説明しないで、正しさだけをぶつけあったら、どうなるだろう。
私「牛乳を飲め、飲まないと叩く」
君「いやだ、飲まない、飲んでも吐く」
 これじゃ、どちらも悲しい。牛乳だってもったいない。
 だから、とりあえず「正しい」かどうかは、置いておこう。
 「正しい」ということは、もっと君にとって大切なときに、使うものなんだ。

「正しい」の正しい使い方。

 君にもいつか、好きなひとができるだろう、もういるのかい? それは大人だな。さあ、その好きなひとが、ひどい目にあったと想像してごらん。そのときに、君はどうする? ひどい目にあわせた奴と戦う?好きなひとと一緒に逃げる?隠れて力をつけて、いつかやっつける?
 そう、君が読んでるマンガで、いつもやってることだ。マンガとは違うけど、ずっと生きていると、いつか自分の正しさを選ばなきゃならないときが来る。その時何を選ぶかは、君の生き方が決める。
 私はずいぶんと適当に生きてきたから、とてもかっこわるいことしか選べなくなってしまった。
 だけど君は、まだあまり……私に比べたら、まだ悪いこともひどいこともしてないだろう。だから、きっといつか「正しい」ことができるし、それを自信をもって選べる。
 どうか、その時のために、君にとっての正しさは、大切にとっておいてほしい。牛乳を飲むか飲まないか、なんて議論で、ムダに使わないでほしい。
 世の中には、自分の正しさを疑わないひとがいる。
 そんなひとと出会ったら、どんなにそのひとが間違ったことを言ってても、それが君の正しさをぶつけるべき相手かどうか、よく見て考えよう。もしそんな価値がなかったら、君はそんなひとのために、正しさを使う必要なんてないんだ。
 もっと大切なときのために、自分の「正しい」はとっておこう。
 私のように間違って使ってしまい、あとで後悔しないためにね。