絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

体罰について

「定義の問題だ」と仰る方がいたので定義してみた。
 その競技(授業)のルールに則らない攻撃は、全て体罰だ。
 たとえば相撲で、土俵の上で傍から見れば止めたくなるぐらいの張り手をしていても、それは体罰ではない。だが、ほんらいは手で持って上下させるべきダンベルを相手の上に落すなどしたら、それは体罰ですらない、単なる暴行虐待だ。
 野球で、シゴキと称してノックを続けるのは体罰ではないが、バットでケツを叩くのは、道具の使い方が間違っているので体罰である。バットとはボールを打つものであって、ケツを叩くために作られたものではないからだ(ケツを叩くために作られた道具も存在する、その道具を使った競技を学生がするべきかどうかは、私の知るところではない)。
 そう、つまり数学の授業で、進みの遅い生徒に100マス問題を延々やらせるのは体罰ではないが、三角定規で殴ったら体罰だ、ということだ。
 体罰に移行した時点で、それは指導としてはクソの役にも立たない。ゆえに体罰は禁止される。使い道を誤った行為は、誤りであるがゆえに是正されなければならない。それは有害ですらあり得るからだ。愛があるとか、熱のこもった指導だとか、そういうのはどうでもよろしい。なぜならルールに則っていない以上、その体罰による効果は未知数であり続ける。クリアに行こう、教育はホビーではない。
「だが怒鳴らなければ、殴らなければ本気は出せない、ダラダラとやる気の見えないガキどもの姿がお前には見えないのか?」
 思い出そう。なぜ親は、子供が危険な事をしたら怒鳴りつけて止めるのか。子供には、危険とそうでないものの区別がつかないからだ。ではなぜ授業中にお喋りを続ける子供を怒鳴りつけ殴る教師がいるのか。「生徒が授業を聞かない事を危険ではないと感じている」と、想像するからだ。ところが、ルールに沿わない叱りを続ける限り、叱られた者は「危険である」という一点しか学べないのだから、その叱りはまったく有効ではない。
 大人になると、物事と物事の関わりが遠くなる。直感でははかれないほど長い時間を、私たちは生きている。それでも悲しいまでに、私たちは直感に頼って物事を判断してしまう。殴られ怒鳴られた子供の頃の記憶を頼りに、世界を正そうとしてしまう。
 さあ定義ははっきりした、指導者たちよ、思う存分に生徒たちをシゴキたまえ、頭が死ぬほどファックするまでシゴけ、ケツの穴でミルクを飲むようになるまでシゴき倒せ。自らが奉じるルールという神の名のもとに、やるべきことだけをやるべき形で叩き込め。