絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『ベイマックス』まだ観てない人と『ベイマックス』観たけどなんかスッキリしなかった人向けの話

映画『ベイマックス』観ましたよ! いやあ面白かった、んで未見の友達に冒頭数分のあらすじを話したら、そんな感想だれも言ってない、お前の妄想だろう、って言われたので、まとめてみた。要するにネタバレだ。だが、このネタバレは果たして真実なのか、それとも私の妄想なのか? 真偽はキミの目で確かめてほしい。

舞台は近未来、San Fran 奏京

霧煙る大都会、サンフランソーキョー。風力発電バルーンが高層ビルの谷間からケーブルをのばして空に浮かんでいた。広告と、ネオンと、鳥居が混在する街。その路地裏で、今宵も過酷なロボット同士の違法な賭けバトルが繰り広げられている。
唸る電ノコ、千切れる手足、丸いドヒョーの上で戦うロボットは、互いの体を文字通り削り合いながら相手が動かなくなるまで戦い続ける。
差し向かいで座るプレイヤー、一人は目の周りを黒く塗りボンデージ服に身を包んだパンク少女、そしてもう一人は巨魁をゆすって笑うスモウレスラーのようなジャージの男……。
「勝負あり!」
眼帯をつけ、和傘を持ったレフェリーらしき美女が、スモウジャージの勝利を告げる。パンク少女のロボットは既にバラバラだ。
「さあ、俺に挑む奴はいないのか?」
凄みを効かせるスモウジャージの声に、恐怖の声もなく自らのロボットを破壊し勝負から逃げる臆病者たち……その中から、一人の少年が歩み出た。
「ぼく……挑戦します」
だが、まだ幼くおびえた様子の少年を観て、周囲の大人たちは鼻白む。
「ぼうや、戦うにはお金がかかるのよ」
「持ってきてます! これで、足りるよね?」
少年は握りしめたくしゃくしゃの数ドル円札を差し出す。それは誰の目にも、彼が少ない小遣いをためてこの日のために用意したなけなしの金に見えた――スモウジャージが口の端をまげて笑う。
「いいぜ、勝負だ、小僧」
「ぼくは、ヒロ・ハマダ」
「いいから座れ、負けても泣くんじゃねえぞ、"小僧"」
ヒロの持っていたロボットを見て、観衆は嘲りの笑いを向ける。磁力接合のボールジョイントでつながれたそれは、まるで黒いカカシのようだ。
勝負は一閃――ヒロのロボットは電ノコで分断され、ドヒョーに転がった。
「勝負あり…」
「待って! ……もう一回、もう一回だけ……お金なら、あるよ」
そう言ってヒロが差し出したのは、きれいにそろえられたズク(万札を10枚束にしたもの)だ。
あきれ顔だったスモウジャージの顔がほころぶ。カモだ、むしりとってやれ――あまりにもあっけない勝利に、スモウジャージの緊張感がゆるむ。
「いいぜ、何度でもやってやる」
返事もせずに、ヒロは再びドヒョーの端に座る。だが――空気が違う。さっきまでの怯えた少年の姿はどこにもない、そこにいるのは――一匹の勝負師。
「さあ……やろうか」
スモウジャージが返事をするよりも早く、ヒロの指先がコントローラーのスティックを叩く。転がっていたヒロのロボットが回転し――合体して――悪鬼のごとき表情に変わる。
まるで黒い蛇のように、ヒロのロボットは容赦なくスモウジャージのロボットを解体していく、どんなに抵抗しても慈悲はない。腕が、脚が、そして首が、もぎとられていく。
「やめろ、やめろぉ!」
スモウジャージの叫びもむなしく、ロボットは物言わぬ残骸と化した。ドヒョーの上には勝負の機微も勝利の感動もなく、ただ残虐で冷酷なモーター音だけが響いていた。
呆気にとられた観客たちを尻目に、勝金を持ったヒロは賭場から出ていく。それが当たり前であるかのように――
 

俺は見たんだ、この目を賭けてもいい!

「いや、嘘でしょ、それなら見たいけど――いくらなんでも」
と、友人は笑った。そう、私も信じられなかった。だが、スクリーンで繰り広げられたあの場面は、まぎれもなく『ベイマックス』の一場面だった。まるでニンジャ・スレイヤーのような舞台で、福本伸行の描くような天才少年が、目のくらむようなシグルイ勝負を見せてくれたのだ。これだけで観に行く価値はある、と言ったら過言か。
え? こんなボンクラな場面があるよ〜、って、そんな場面てんこ盛りの作品じゃん、って?
いやいや、安心めされい、この場面は物語を解釈する上で、ものすごく重要な意味を持つのである。見逃すと、なんともスッキリしない感じになる大切な場面なのだ。
この冒頭で描かれるのは、ヒロの根本にある精神の構造である。彼は無邪気で残酷なファイターだ。強き者が勝ち、弱き者は砕け散る、そこに疑問を持たない勝負師だ。そんなヒロに、兄がプログラムしたロボット、ベイマックスは問いかける。「ヒロ、それであなたはスッキリするのですか?」
映画のラスト、原語版では「ぼくたちは誰かって? ビッグヒーローシックスさ!」とヒロが言って終わるという。日本語ではその部分はカットされたが、それは大した問題ではないと私は思う。なぜならその前にヒロは言っているからだ。「兄さんが望んだ形とは違うかもしれないけど、ぼくは人助けをすることにした」
いや、介護ロボットの研究しろよ! ヒロ! なんでお前自分の命を危険にさらすんだよ!
……そりゃあ、そっちの方が、スッキリするからである。
ヒロは兄が望んだ研究者の道を表の姿とし、仮面を被って再びヒリヒリする勝負の世界に戻っていった。作中でアメコミオタクのフレッドが言った通り、ヴィランにもヒーローにも表の顔と裏の顔があるのだ。そう、ヒーローという生き方は、どこまでいっても職業にはなり得ない。バットマンは大富豪、スーパーマンは新聞記者、スパイダーマンはカメラマン、アイアンマンは社長、ソーは神様、ハルクは科学者。いやもちろん設定としてヒーローが職業になっている作品はあるが、というかキャプテンアメリカとか普段はヒマそうだが、いやファンタスティックフォーは非営利団体だし、とか、まあいろいろあるが、職業としてのヒーローは主流ではない、だいたい昼はみんな別の職業を持っているもんである。それはなぜか? 常軌を逸した人助けとは、決して対価を求めて行うことではないからだ(常軌の範囲内の人助けは、消防士や警察官の役目である)。
なんだか面白かったけど、完璧だったけど、すごく気配りの効いた作品だったけど、けど、けど、けど、そんな感想を持った人には、この事を伝えたい。
ベイマックスには、ジョン・ラセターが今まで作って来た作品とは大きく違う点が一つあるんだよ。
これはね、ジョン・ラセターが初めて挑戦した、まっとうな部活映画なんだ。

職業ものを描き続けるジョン・ラセター

トイストーリー』が新鮮だったのは「おもちゃ」を職業に見立てたことだ。おもちゃたちにとっては子供を楽しませることが仕事で、そこには仕事につきものの出来事――新人は職場のルールを学ぶ、とか、毎日仕事のあとのミーティングがうざい、とか、ロートルは引退を余儀なくされる、とか……子供には知る由もないような話がたっぷり描かれる。『バグズライフ』は会社員とフリーランス集団の出会いの話だし『モンスターズインク』なんてそのまま「会社」だ。『カーズ』(レースカー)も『レミーの美味しいレストラン』(シェフ)も『ボルト』(犬俳優)も、みんな職業ものだ。ディズニーと組んでスマッシュヒットを飛ばした『Wall-e』はゴミ収集員がエリート社員と出会う話。次に作った『シュガーラッシュ』は「悪役」という職業に悩む男の話。もちろん『カールじいさん』『ファインディング・ニモ』『メリダとおそろしの森』っていう人生そのものを描いた作品もあるんだけど、割合で言ったら職業ものの方が多い。(ほかのスタジオが同じような設定なのにすぐ人生ものに舵を切ってしまうのも面白い事実なんだけどこれは割愛)。ちなみにカーズのスピンオフである『プレーンズ』『プレーンズ2』はちょっと子供に見せるのはきついレベルの職業ものなので私的には大変おススメです。閑話休題
かようにラセターという化け物は、職業ものを描くのに長けた男なのである。
様々な解釈飛び交う『アナと雪の女王』ですら、無職が就職する話として解釈すると、話の筋がまとまる。特殊な能力を持て余したエルサが一度は山に引きこもって「氷の彫刻家になるわレリゴー」って間違った選択をして残念な感じだったのを「いや、町で氷を作ればいいのよ」って就職させて、みんな安心するのだ。
だが、ここにヒーローものとの大きなすれ違いが起こる。ヒーローは世間の裏側にいるものであり、ライフスタイルであり、生きがいであり、趣味であり、奥さんには理解されないものであり、出張中に捨てられかねないものなのである。『Mr.インクレディブル』というのは、そういう映画だ。だからあの映画はすっごくテンションが上がったところで、なんだか急にスパっと断絶して終わる。その先を描けないのである、描いたら『アナと雪の女王』になってしまって、ヒーローではなくなる。町の便利な氷おばさんになってしまう。
そこで新しい(実は古い)作品の視点があてはめられる。そう、部活だ。

サークルから部活へ、

モンスターズ・ユニバーシティ』は、映画『アニマル・ハウス』や『ポーキーズ』などの大学サークル映画が元ネタである(『キャリー』のパロディもあったりするが)。大筋は就職に至るまでの物語だが、そこで描かれるのは人生の行く先を決める前の執行猶予期間だ。彼らは若く、人生はまだ長い。先の長い人生のある一点で、彼らは交差する。サークル活動を通して彼らは笑い、怒り、泣き、微笑み、そして成長する。だが、それは人生の終着点ではない――入口ですらない。サークルはサークル、どんなにその瞬間は命を賭けていても、いつかは彼らも就職し、その日々を思い出として語るのだ。
だが、部活は違う。大学を卒業しても、就職しても、リタリアしても、部活はどこでも続けられる。ママさんバレーチームだってあるし、ろうがんずに入ればみんなでプラモデルが作れる。あくまで趣味であり、遊びであるにも関わらず、それは生きがいであり、ライフスタイルになり得る。
あるところに、一人のまだ未熟な者がいた。その者は、力を持て余していた。やがてその者は、あるひとつの部活に触れ……自分の力の使い道を知る。部活もののセオリーだ。その者が誰かはわからない。運動神経のいい不良かもしれない、ただひたすら自転車をこげるオタクかもしれない。当てはまる作品はいくらでもあるだろう、それが職業ではないにも関わらず生き方を左右するものである限り、それは"部活"なのだ。
ベイマックス(Big hero 6)』は、そんな部活動としてのヒーロー活動のはじまりを描いた作品なのである。楽しもう、新しい挑戦を。