絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

小さなウソほどむずかしい。

 昨今作られる日本の戦争を題材にした舞台ってのは、だいたい誰かのために死ぬということが描かれていて、でもそれは嫁さんとか好きな女の子とか母さん父さんありがとうとかになっていて、観るたびにそれはお前欺瞞ではないのか、と思う。これは全然高尚なレベルの話ではなくて、もっとどうしようもない、たとえば昔見た舞台で、彼女や嫁さんや家族もおらん兵隊が、炊き出しのおばさんのために死ぬぞおれは、といって特攻している話があって、クソが、とりあえずそのばばあと一発やってから言え、とか、そういう話だ。
 もちろんやるとかやらないとかが重要なのではない。誰かのために死のうにも、相手も何もない連中が大半で、死ぬべき理由もないのに殺されるにはキツすぎるから、天皇がその役目を負ったんではないか。それをお前、炊き出しのおばさんで代替するのはちょっとズルくないか。というわけである。いやしかし、結局やっぱりどう考えたって「何かのために死ぬ」というふうに描くことによって、登場人物は否応なしに死を受け入れてしまうじゃないか。それは作劇としてズルいだろう。
 だいたい、実際の戦争になってしまえば、これは最近の例だけれども湾岸戦争では味方の誤射が死傷者の大半を作り出したとか、第二次世界大戦だったらノルマンディーに上陸することなくおぼれて死んじゃった、みたいなのがいっぱいあったわけで、受け入れる受け入れない以前に死んじゃうのだから、まあそれだけでは話がそこで終わってしまうのではあるが、本当にあった戦争というのはそんな感じだったらしいのだから、本当にあった戦争の話を描くなら、それでいいじゃないか、と思う。そうだつまり描かなければいいのだ(血しぶきドバーン!首ズバーン!すげー!わー!死ぬー!みたいな映画はバンバン作られるといい)。
 ところがいまの、おれと同じくらいの年か、一回り上くらいの連中が作る戦争の話は、やっぱりなんというかみんな死ぬことに納得しがちだし、さあ死ぬぞ、誰かのために死ぬぞ、となっていてお涙チョーダイでものすごく辛い。そういうのは架空の話でやりなさい、ウソの物語の中で存分に死になさい。宇宙とか、未来とか、別の世界とか、いくらでも何かのために死ぬ舞台はそろっている。本当の戦争を、そういう道具に使うな。
 本当の戦争は、本当の戦争だから、知らん。でも、戦争に関わっているけど、戦場に行かなかった奴のことならわかる。戦争に関わっているけど戦場に行かない奴とは、今ではすっかり、おれたちのことだからだ。
 というようなことを、ソクーロフ「太陽」を観て、感じた。
 ソクーロフという監督の作品をはじめて観たのでうすらぼんやりしたおれの解釈は間違っている可能性が高い、だけど、おれはそう思った。おれはこの映画が好きだ。このでっかいウソを愛する。
 世界が滅びそうなときに、何をすればいいかはだいたいわかる。だけど目の前でひとが死にそうなときや、おれが死にそうなときにどうすればいいかなんてことは、どんなにおれがバカでも、今すぐには決められない。そうなってみなければわからない。だからおれは、小さなウソほどつきにくいと思うのだ。