絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

日本人であるということ

 『ローレライ』という映画は「ぼくたちは敗戦国日本で生き残った屑の更に生き残りであるオタクだが、それでも生きるのです」という絶望的な告白なのではないだろうか、というのがぼくの見解。(参照id:screammachine:20050308)
 で、id:Hayashida氏のカテゴリ[村上隆]に注目する。

慇懃に自らの領域を侵犯されたにも関わらず、ヘラヘラ笑って斜に構えてたオタクには、村上のこの言説を批判する権利はない。
id:Hayashida:searchdiary?word=%2a%5b%c2%bc%be%e5%ce%b4%5d

 引用されている村上氏のニューヨーク個展『リトルボーイ』の解説記事を機械翻訳して、みた。

 プロジェクトのタイトル(LITTLE BOY)は、1945年広島に落とされた原子爆弾の暗号名を引用しています。村上の日本の大衆文化の解釈および過去30年間のグラフィックアートは、彼の祖国の戦争の記憶、および日本の戦後の発展状況についての理解に執着します。村上の視界では、オタク文化に通知する特定の歴史上の出来事およびプロセスは太平洋戦争(1932-1945)における軍事侵略および敗北を含んでいます;原子爆弾の荒廃;日本のアメリカへの軍事・政治的な依存;また子供と青年のために表面上生産された使い捨ての消費者文化を備えた従来の階層的日本の文化の置換。
 タイトルは、さらに漫画の中に明らかです。日本の文化および考え方の幼児化を参照します。「かわいい」製品およびヤング・マーケットの結果である日本の西経済・政治的な依存に、村上は異議を唱えます。これらの未決着の矛盾が日本の大衆文化の爆発的情況であるとLITTLE BOYは示唆します。
http://www.artdaily.com/section/news/index.asp?int_sec=2&int_new=13245

 記事は更に「原子爆弾によって引き起こされた政治的無関心」から、各作品の解説に進む。幾分偏向はあるけれども、展覧会そのものがそのような意図によって作品を集めたのだから、これは村上の主張であると考えて差し支えないだろう。
 この破産寸前の国で快楽に身を任せて生きる愚鈍さ、その間抜けさ。それらを飲み込んでなお、オタクであり続けるという諦念。そういう明確な不安感を楽しんだ上で、時間を浪費できるかどうか−本当の消費者であるオタクの多くが安定収入を持った"社会人"であるという事実−死なないように楽しんでる連中のペニスがシリコンの人形に刺さる。アーティストとしての村上を駆り立てるのは、そういうものに対する感情のほとばしりなのだろう。
 そして、その文脈を無視したところで"オシャレ""海外で認知"といった言説に浮かれるひとびとこそ、オタクの真なる敵なのだ。クラブイベントをいくつか主催してみてわかったのは、昔から嫌いだった「オタクとテクノの融合」といった言説が、いかに搾取的で薄っぺらな中身のないものだったか、ということだった。西欧的な価値観を容易に受け入れ、模倣し、表現する彼らクラブ文化圏の人間にとって、戦後とはもはや過去であり、日本とは日本語を話す地域でしかない。だが我々オタクは日本人であることから逃げられない、戦後はいまだ戦争の後であり、永遠に消し去ることのできない甘美な悲劇の記憶だ。そこから逃げ出さなければ狂ってしまうほどの恐怖だ。オタクとして生きるのは、戦後日本でアメリカの奴隷として生きる我々にとって、あの戦争を回顧出来る、唯一の穴倉だったのだ。考えれば考えるほど、オタクであると胸を張って言うことが、こんなにも苦しく、誇らしいものだと気づかされる。
 戦わなければならない、拳を握ろう。