絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

マンガにおける各要素の扱いについて。

要約:どんなマンガにも、あらゆるテーマが混在し得る。マンガ内に局在する物語の要素を見逃すな。
ファック文芸部の方ハチクロについて書いたんだけど(ついて?)、それで思い出したので、前に書いたエントリをサルベージ。↓『ハチクロ』『のだめ』と『シュガー』『昴』の違い。

 なぜなら、狂気の快楽は、恋愛とは相容れない場合が多いからだ。
絶叫機械+絶望中止 2005年1月20日 天才が出てくるマンガについての話 より)

 そして映画『ヘルボーイ』について(原作がマンガ)。

 簡単に言うと恋愛映画なんだけど、それくらいの宿命と出会いがあれば愛も燃え上がるっちゅう話ですわ。
絶叫機械+絶望中止 2004年10月20日 観よう!ヘルボーイ! より)

 ここにあがった作品には共通点があって、それは「ああ、こいつら他の男や女じゃ愛し合えない」というもの。これが面白いことに『昴』と『ヘルボーイ』はその力の強さゆえにつりあう相手がいないという話なんだけど、実は『のだめ』もあの世界ではつりあう相手が他にいない。
 天才と凡人を出会わせた『ハチクロ』は、そこで「やっぱ無理!」と言い切ってしまった点が惜しい。まあ、これは好みの問題で、その逃げ場のなさに共感することもあります。
 で、わりとこの視点で見ると今週の『ボーイズ・オン・ザ・ラン』がカッチリはまるわけです。ああ、この二人、つりあってる、逃げ道ないわ。このバカ女とこのバカは、愛し合うしか道がない。そこが人気の秘密だったりするのかな、とか。私は好きではありませんが、ついつい読んでしまいます、いいマンガです。

マンガは一つのことだけを描いてはいない。

 萩尾望都が対談で「持ち込み作品を読んで『テーマをひとつに絞ったら?』って言うと『一つの作品にテーマがいくつもあっていいと思います』と返されてしまうの」というようなことを言っていたのですけれども(うろおぼえですが『ストロベリーフィールズ』対談:時に閉じこめられた輪舞(萩尾望都・伊藤杏里)だったと思います)、おそらく投稿される作品と違って、ふつうに目にする雑誌に連載しているマンガにおけるテーマというのは、マトリクス状になっていて、恋愛1:バトル5:料理3:成長5:俺様10(鉄鍋?)といった各要素がせめぎながら、あるわけです。そこで目立ったものをテーマと呼ぶんですね。
 前述の投稿作品は、そこがボヤけているのにも関わらず「色々書きたい!」という思いだけが先走る、というものだったのでしょう。
 本当は「テーマになり得るものはいくつあってもいいが、読者の目に届くのは一つだけ」なのです。

連載されるということ。

 新聞連載小説だった『大菩薩峠』を読むとわかるんですが、まあ先々考えていたらとてもじゃないけど書けないな、というテンションです。毎日毎日、原稿用紙わずか数枚で、読者の喜ぶものを書きつつ、翌日まで読者の興味を惹かなきゃならない。少年誌のアンケート制度は、ただそれを踏襲しているに過ぎません。その上で読者の斜め上を行くテンションの維持こそが、大作家の大作家たる所以なのでしょう。これは『ジョジョの奇妙な冒険』の愛読者ならご理解いただけますか。
 そして、週刊漫画誌は「ストレス→開放」というパターンを生み出しました。
 たとえば『バンビーノ!』という作品があります。これは料理人を目指す血気盛んな主人公が天狗の鼻をへし折られてフロアにまわされてしまいグッタリするというマンガでした。ところが先日、料理勝負の話が持ち上がってから俄然テンションが高くなったわけです。主人公が勝負に敗れ、修行をし、自らの慢心に気づいて立ち直るまでが、実に単行本にして5巻分! ワンピースの展開をダルいとか言いながら、成長する理由が描かれていないとか言う御仁は『バンビーノ!』を通読していただきたい。人間はそれほど簡単に、わかりやすい理由で成長するわけじゃありません。
 再戦が始まるまでの『バンビーノ!』は、確かに現実と向き合うための教科書的なマンガでした。それもまた、このマンガの大切な側面です(アマゾンのレビューはその側面を絶賛する感想で一杯です)。けれど、勝負が近づいてきて、テンションのあがった『バンビーノ』もまた、社会人としてはかなりダメな主人公でも、面白いわけです。

マンガを楽しむために

 連載マンガは、それ単独で作られる「映画」や「小説」とは違い、変容する生き物なのです。だから連載された作品の一面をとらえて「これは○○についてのマンガだ」「このマンガは○○が描けていない」と批判するのは、的外れなのです。その作品に含まれる要素を読み取り、味わいつくすことが、マンガを好きだということなのではないでしょうか?
 どうか一度、読んだことのないマンガに手を出してみてください。そして、なぜそのマンガが売れているのかを、頭と心を使って、考えてみてください。そうすれば、もっとマンガはあなたに優しくなるはずです。

理解の枠組みって、必要だけど簡単に決められない。

なんだか、80年代以降にも「少女漫画らしいもの」とされた漫画のラインナップだけど、いかにも男性が好みそうな少女マンガの羅列。いや、この人の言及する漫画自体がそもそも「そういう感じ」のものばっかりなのだ。とても恣意的なので「こうして内面が成立してまた拡散していった」とかいっても、まったく実証的といえない。
http://d.hatena.ne.jp/./nogamin/20061018/1161176807

 結論まで一気に読んで、更にコメント欄まで面白かった。
 で、私はマンガにおける性差というものは、現実と同じように歪められたりさほど違いがなかったりするものだと思っているのではあるけど、それは結局私にとって性差というものが曖昧だからで、まあひとそれぞれですよね、そういうの。それを統括できる理論なんてものを考えられたらすごい。
 あーつまりひとは読みたいものを読むわけです、だから書いてあっても目に入らないこともある。ちんぽないひとにちんぽのわずらわしさはわからないし、まんこないひとに生理について想像させてもいまいちリアリティがない。
 大塚英司にとって岡崎京子は80年代の作家でしかなくて、それは彼がリアルタイム(80年代)に彼女を見ていて、リアルタイム(90年代)に見ていなかった、ということなのだな、とか。雑記なのでダラ書きですみません。
 リンク先のコメント欄でもちょっと出てますが、子供時代に読んでいなかった作品についてひとは軽々しく語れない、もしくは軽々しく語ってしまう。これはおかしなことですが、並列します。
 人間というものは自分が生まれる前を想像するのは結構難しい。これは何かに出会う前と言い換えてもよろしい。誰かと恋愛をするときに、そのひとが前に付き合っていたひとを想像する。相手の中に、あなたが生まれる前の話です。
 そういう想像をすると、嫉妬心や敵愾心よりも先に、絶対に得ることのできない失われてしまった時間が浮かび上がるわけです。あらかじめ失われてるわけですよ!悲しい!どうしようもない!でも……好き……みたいな。
 私は図像的なアプローチが性に合っているので、その辺と「内面描写」とやらについて分析ができれば、作品に「出会う/出会わない」といった曖昧さの回避ができるのではないかと思った。って前のコメント欄で指摘されたことなのに自分で思いついたみたいに書いてますが。
 あと、これも気づかされたこと。私には片目の悪い友人がいて、彼は立体視ができない。だから私が「人間は二つの目で〜」と書いたときに、私は彼を人間の範疇から切り捨ててた。これはひどいことだ。
 だからこそ指摘にあった「マンガの顔の正面性」という言葉は私に響いた。左右の視差を表現するのではなく、その顔が正面への指向性を持っているということならば、私の友人は切り捨てられない。もちろんそこで全盲のひとは切り捨てられるのだが、そもそもマンガというメディアが大衆向けの視覚文化である以上、そこには性差よりも激しい根源的な差別が内包されているのである。その辺を意識して書くと足の裏がジリジリするので私はそうするべきだった。
 だからって偏った視点で性差を扱った理論が許されていいわけじゃなくて……ああ! いま私は猛烈にマンガの話がしたい! きめいのはわかってる!! でも何かダラダラと……うう。