絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

誰だってそうだ。

 誰かが「人間」と言うとき、そのひとの頭には自分と同じ姿が浮かんでいる。たぶんそうだと思う。
 その姿は、どこかが欠けていたり、過剰だったりする。
 創作においては、その欠損/過剰こそが、作品を形作るのだ(と思う)。
 だけど、大勢が認める「人間」は、全てが足りていて、過剰な部分がない(ことが多い気がする)。
それに対して、何かが足りない/多いひとは、不快感を感じるだろう(と思う)。
 なぜなら、大勢が認める「人間」には、自分が含まれていない(場合が多い)からだ。
(余談:個人の創作物に対して欠損/過剰をあげつらうのは、単にその個人が嫌いなだけだろう。優れた創作物であったとしても、全ての人間をフォローできるわけではないからだ)
 
 
 最近某所で好みの男性に抱きしめられた。もちろん性的な意味ではない、親愛の情を示してくれただけだ。でもまあ、うれしそうな顔をしてしまっていたんだろう。過剰に。
その姿を評して、別の男性に「失礼だけどゲイっぽいですね」と言われた。笑いながら言われた。
 ゲイっぽいと評するのは失礼にあたりますか。面白いですか、ゲイっぽいと。ゲイだったらもっと面白いですか。面白いんですかその発言って。面白くねえよ。
 ゲイと言われることが不快ではない世界を想像してほしい。日常会話は創作物ではないのだから、もう少し視野が広くならないか。まあ有体に言うと、ゲイっぽい外見ってことはゲイっぽいってことだよ。だからって、そういう主張を初対面でするのは変でしょうが、まったく、そんな話題でもないのにさ……まあ……初めてここを見るひとには……言っちゃったわけですが……。