絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

逡巡

 観た映画についての意見は交わされるべきだし、デキの悪い映画に対して突っ込みを入れるのは正しい行為だと思う。ただ、その映画を観て楽しんだ人間に対して「バカ、引きこもり、童貞、シャブ中、キチガイ、左翼」といった、定義からして間違っているレッテルを貼るのは、単に自分を高みに置きたいという下賎な欲望のために、映画を使っているだけではないかと思うのだ。
 いや、違うな、レッテル貼りそのものは、表現として面白い場合もある。問題視しているのは、そこじゃない。
 ある批評文が「自分を偉く見せようとしているだけ」に見えるとき、その批評家は矛盾している。その文内で矛盾することもあるし、それまでの批評態度と180度違う場合もある。
 だから作品そのものを楽しんだり、批判しているようには読めず、単にその作品を見て感じた不快感を正当化しているように見えるのだ。
 あれ?じゃあ快感を正当化するのはいいのか?
 同じことをしているだけじゃないのか?
 ……違う、面白い批判と好意的な解釈は映画鑑賞に役立つけど、単なる罵倒や的外れな批判はノイズにしかならない、もちろん好意的な解釈だって、的外れであればノイズになるが、批判の比ではない。
 映画は全て面白い、どんなにつまらない映画でも面白い部分はある、ただ人間というのは生きる時間が限られているから、全てを見るわけにはいかない。だから批評家という職業は存在するのだ。なぜ批評家が監督よりも上の立場にいるのか。観客をバカにできるのか。監督も観客も批評家も、スクリーンの前では全て同じではないのか。 
 あるジャンルのファンがその映画を観に行くとき、何を期待していくのか、それを忘れて映画を批評するのは、意味がない。カンフー映画好きがアニメ演出的な映画のファンを「引きこもりだ」と批判したり、小津好き大学教授が怪獣映画ファンを「ぬいぐるみを見て喜んでいる」と批判したりするのは、的外れだし、自分の好きなものを否定するのと同じ愚行であることに気づいていない点で、致命的だ。
 たぶんぼくは、矛盾の少ない意見がほしいのだろう。自分が面白いと思った作品が、無価値ではないと思いたいだけなのだろう。
 情けない結論になった、しょんぼりする。
 これからもぼくは、ロクでもない映画を好きになっては、尊敬する批評家に「バカ、引きこもり、童貞、シャブ中、キチガイ、左翼」呼ばわりされるのだろう。
 これはもう、仕方がない、ゴミ映画を好きな、ぼくが悪いのだ。
 仕方がないのである。