絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

R30の記事を、飲み込みやすくしてみよう。

要約:棘のある文章から棘を抜いて、わかりやすくしてみよう。
 みなさんこんにちは、ふしぎテクニックの時間です。
 今回は、殺伐とした文体をコピペ改変することで、口当たりの良い文章にしてしまおうという試み。元の文章はこちらです。
生活保護は国の責任だとか言ってるご都合主義者どもに告ぐ
 タイトルからして相当な殺伐具合ですね。以下が改変後の文章です。さあ、どうなるのかな?

生活保護は国の責任?ご都合主義の危険性について。

 みなさんこんにちは、今日は生活保護のお話です。
 「生活保護は削減して地方分担」とか「生活保護憲法で保障された最低限のセイフティーネットだから地方分権しちゃいけない」とか、いろいろな意見がありますね。
 ワタクシのスタンスは
 厚労省さん!住宅扶助と生活扶助と医療扶助は全部全額地方にしてほしい!
 です。
 ワタクシ思うに、トータルとして「収入が少ないから生きていけない」という人は、世の中全体でかなり減っているのではないでしょうか。
 言い方は悪いけど、夢を追いかけて貧乏になっちゃった人と、世の中の何かの間違いで突如貧困に落ちちゃった人とかを、同じ収入基準で判断して「生活保護」の対象にするのは、無茶じゃないかなー、って思うわけです。ライフスタイルは人それぞれですからね、どう処遇すべきかも変わって当然ですよね。
 おおざっぱに言うと、大都市と、それ以外の地域では、生活保護の方法がまったく違うんじゃないかな。というのも「ホームレス」という言葉が象徴するように、大都市の生活保護世帯というのは、まず住む場所を巡ってのトラブルに直面してしまうからです。
 山谷という場所を知っていますか? そこで聞いた話なのですが、ホームレスのかたが生活保護でもらったお金を、悲しいことですが、そのまま全額取り上げてしまう宿屋商売が存在します(それをドヤと呼びます)。そして、ドヤの回りには、その日に稼いだお金で飲み食いできる居酒屋がびっちり軒を連ねているわけです。この環境から脱出するのは、とても難しいことです。大都市では、このような生活保護とともにある地域そのものを、どうにかしないとなんともならない。
 一方、地方の生活保護は、どうなっているんでしょうか。これがまったく逆で、住まいはあるんだけど、仕事がない。本当にない。さまざまな事情があるんですが、最近では公共事業も減っているので、とても悲惨なぐらいに仕事がないのです。
 そんな悲惨な話、聞いたこともないですか? そうですね、これまでは、国がほとんど財源の面倒を見てくれていたんです。そして、地方自治体や、政治家は、その実態を見ないようにしてきた。
 マスコミだって、生活保護といえば「働けるのにもらっている人がいた」と、不正受給を非難したり、支給の審査を厳しくすればいいと言うばかりでしたよね。誰も、生活保護者を利用して成り立っている産業の問題点や、その解決策については議論をしてこなかった。
 今のままでは、生活保護制度を悪用している産業をなくせません。
 首都圏や近畿圏の都市が、ホームレスの自立支援活動をしているこういったNPOなどと共同で、都市計画とあわせた政策をやっていかないと、問題は解決しないと思います。また、地方では公共事業に頼らない、仕事を作り出さなきゃいけないでしょうね。
 いずれにせよ「セーフティーネット」というのは、お金の問題じゃなくて、地域社会の問題なんです。いくら払えばいいとか、誰が払うのか、というのは、もうやめてほしい。もちろん生活保護だけを地方がやるのは大変だけど、だからといって地方自治体と住民たちが無関心でいいわけがないんです。
 というわけで、自分に都合のいいときだけではなく、都合の悪いときにでも、しっかり問題を見据える目を、マスコミには持って欲しいと思います。もし無関心なままだったら豆腐五丁をお届けしますので、その角で是非!

 というわけで、今回は糸井重里メソッドの実践でした。やってみてわかったのは、これじゃちっとも面白くない、ということですね。皆さん元の文章を是非読んでください。

糸井重里メソッド とは

  • ほぼ日刊イトイ新聞で使用されている文章記述手法。
  • 敬語体で穏やかな語り口を演出。
  • 共感をベースにした思考スタイルを基本とし、まず読者の感情を最優先して考える。不快になることなどネガティブな感情が発生しそうなことは慎重に発言する。

注:この改変文章は、知識のない者による、表現に関する改変です。本題とする内容に誤りのある場合はご指摘下さい。

理由のいらない病

 帰ってきてすぐに読んだ記事に1時間も使った! ぎゃあ! ばか! というわけで、映画の興奮冷めやらぬままの私を許したまえ。
『トゥモローワールド』観てきました。
 すごい!すごい!この映画すごい! 映画に合わせて出た原作本を事前に読んで、あとがきで監督の「映画は原作とはまったく関係ないから、おれ読んでないし」というコメントを見て「どうだろう?」と不安にも思っていたんだけど、いや、監督、お前原作しっかり読みこんだ上でファックしてるだろう! と思うほかなかった。とにかく一番驚いたのは原作を読んだときに浮かんだ風景が、そのまま画面に出てくるということ。そして、原作をはるかに凌駕する映像的衝撃、ああ! これだ! 落ち着けバカ
 ただひとつ、私は映画を観ながら、ひとつの問題点に気づいていた。
 この映画、観客の脳内データベースに頼りすぎではないですかね。
 ええ、確かに私はボロボロ泣いた。流れる曲、出てくる風景、全てが映画を素晴らしく彩っていた。だけど、それらに何の思い入れもないひとには、この映画、ここまで「わかる!セオ!わかるぞ!」と響きますかね? 何かいやらしい「わかっていますよね」というくすぐりに堕してはいなかっただろうか?
 そう思うと、私はこの映画を本当に見るべきひとに、届きにくい作品になってしまったのではないかと、少しだけ悲しくなったのであった。
 私の前列で見ていた男は、スタッフロールが出た瞬間席を立った。その隣に座っていた男の恋人らしき女は、男が手を引くまで座席に座っていた。二人が、せめて歌詞の出ている曲が終わるまで、立たないで観ていてくれたらよかったのに。
 

人類の子供たち (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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