絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

今年の運勢を!

 占いません。
 明日の13時から原宿駅前橋の上で占わないので、ぜひ皆さん占われないでください。道理っ娘というのも募集中です。
「わたし〜霊感がないんですぅ〜、だから幽霊とか全然見えなくて〜」
「あっ!肩の上に幽霊が……見えないっ!」
「ところで血液型何型ですか?A型?わたしB型なんですよぉ」
「輸血できませんね〜」
「性格?さぁ?関係ないんじゃないですかぁ?」
「星占いですかぁ?見ませんねぇ」
「良いのも悪いのも信じないですぅ〜」
「友達にもよく普通だって言われるんですよぉ〜」
という。喋り方はふしぎっ娘なんだけど、言うことは道理が通っている、という。

 ていうか「占いは信じませんが、良い助言だけ信じます」というのは、いつから言い訳として流行したんですかね、みんな自分で思いついたの?そういう「飛行機は飛びますが、ヘリは飛ばない感じがするので飛ばないと思う」みたいな考え方って、占い以外にはあまり適用できない気がする。
 飛行機が揚力を利用して飛ぶなら、同じ揚力を利用したものも、飛びますもんね。ちゃんと制御できる方法さえあれば。
 ふしぎだなあ。

 新年早々こんな話題ですみません。
 去年お世話になった方も、これからお世話になる方も、麻草郁をどうぞよろしくお願いします。皆様がこれからも幸せな一年を無事に健やかに過ごせますように、お祈りをしようと思ったのですが、無神論者なので、祈る相手がいません。
 なので、各自努力してください。
 ぼくもがんばります。

 あっ、もう二日ではないか!

キーワード編集

キーワード無神論者が、えらく偏っていたので編集してみた。
以下引用

神は居ない、と考える事。
往々にして、そもそも存在しないと言う事を前提にしているようである。
概して無神論者は二種類に分けられる。
信仰としての無神論と、理性としての無神論である。
信仰としての無神論者の神への憎悪・否定は
危ない宗教にどっぷりハマった人の異端排除思考となんら変わることがない。
理性としての無神論は、悟性としての信仰と同様素晴らしくも見えるが定かではない。

(以下注釈の注釈)以下の項id:screammachine
上記の如き存在しない「二種類の無神論者」を想定しながら「信仰としての無神論者」批判に多くの行を裂くような偏った意見に対しても、決して感情的にはならずに、理性的に批判しつつ「私の感じている理性とは、あくまで私の主観によるものである」と考える者。
 存在しないと感じるものを存在しないと決定づける自分の感覚そのものに対しては批判的だが、結果として導き出せる答え(神は不在である)が現在最も適当な答えであると想定する者を、無神論者と呼ぶ。
 「信仰としての無神論」とは、共産主義などの思想から発生した二次的な「無神論」のことであり、何かに利用するための「無神論」はその「何か」の変化によっていくらでも置き換えのできる無意味な論であろうと考えることができる。(無知ゆえの誤解でした。誤解された共産主義に於いては上記の通りだと考えます)
ほかにも神の存在を疑う者の中には
「神がいるかいないかは、わからない」とする、不可知論者。
「あらゆるものに、神は遍在する、故に存在しない」とする、偏在論者。
「神は死んだ」とする、超人などがいる。

元記事の注目するべき言葉

往々にして
神への憎悪・否定は
危ない宗教
悟性としての信仰と同様素晴らしく