音楽とたたかう。
先日無力無善寺で「残響祭」という企画ライブに行きました(大遅刻なので二次会で音源を聴かせてもらった)。
で、音楽のイベントをやりたくなりました。
出演していたナガタさんから「麻草さんは音楽イベントやらないんですか」と聞かれて、はあ、何でやらないんですかねえ、と答えたのが発端です。
何でやらないか。前にCDをかけるイベントはやっていましたが、そうではない、私が忌避しているのは演奏です。
そもそも音楽というのは暴力的で、体が勝手に動きます。言語の発声過程を辿っていくと歌が先、みたいな話もどこかで読みました(脳の役割分担系の話?)。そのくせ演奏には肉体訓練が必要で、ああもう、私は子供の頃にピアノやバイオリンをやって、中学の頃はギターやベースやドラムをやって、どれもモノにならなかった(趣味のレベルでさえ)。それがために、演奏という行為に非常な憧れと恐怖があるのです。(今回、舞台の脚本を書いて、深く実感した部分であります余談)
楽器演奏に対して尊敬と畏怖がありながら、機械に対しては違和感がない。当然のように私はキーボードを叩いて文字を書くし、コントローラーを握ってゲームができる。おそらくバイオリンがトラウマなんです、精妙さと正確さを要求するくせに手前はちょっと気温が変わっただけでむくれる、というところにこう……なんだ、楽器演奏は恋愛ですか。
繰り返すけれども音楽はひどい、ほとんど三流ポルノ小説じみた勢いで「口ではそう言っても、体は正直だなあ」って感じで私を踊らせる。ひどい。そこでDJというものは、私をどうにかしてしまう「音楽」を、暴力的に変形させる力がある。すごい。
でも、今回はただのDJイベントではいけない、なぜなら私は「楽器演奏」をテーマにこの話を進めているからだ、ただのDJではまだ生ぬるい、音楽に敵対し、音楽を憎み、そして音楽に蹂躙される、そんなイベントにしなければならない。なんで?
音楽なんてなくたって生きていけるけど、今まであった音楽が全てなくなったら悲しいからだ。音楽が目の前で悲鳴をあげる、メソメソと暴力をふるおう、泣きながら殴るドメスティックバイオレントな音楽イベント、流れているのは嗚咽か旋律か。
そうだ、私は数年前にマシーナリーメランコリーというイベントを開いたことがあった。
マシーナリーメランコリー
http://www.ultrasync.net/melancholy/
テーマは「部屋でぐったりするジャンキーのレコードラック」
長らく二回目をやる機会を探していた。マシーナリーメランコリーにはテーマが必要だ、私はいまぐったりしていない、私はいま足をカタカタ鳴らしている、私はいま波の音を聴いている*。
というわけで、私はここに、感傷的で暴力的な音楽会の開催を宣言する。
実は、もう場所も日取りも決めた。
五月一日火曜日、高円寺無力無善寺。おそらく19時スタート23時撤収
http://homepage2.nifty.com/muzenji/index2.html
現在出演が決まっているのは
建設中
死に舞
百萬石マツリ
beko
ほか未定。
繰り返す、これは訓練ではない、演奏である。