一人称を変えて、一ヶ月とちょっとが過ぎた。
私は以前「おれ」という一人称を使っていた。一人称を変えると、どうなるかの実験であった。効果はてきめん、私はずいぶん弱気になってしまった、おそろしいことに書く内容まで変わってきた。いや、もちろん内容を変えようと思って変えたのだから、これはワライタケを食べて驚いているのと同じくらい間抜けなことなんだけれども、実際になってみると驚く。
言葉について。
平成十八年十一月十五日
言葉遣ひが似てゐる人同士つて、なんかメンタリティ(何)も似通つてゐるやうに見えますね。「言説」とか。アレな人が擧つて「言説」「言説」言つてゐる。「言説」なんて氣持の惡い語、俺は絶對使ひたくないよ――なんて書くと「義」邊が嬉しがつて俺の名前を騙る時に「言説」「言説」言ふ訣だがそれは兔も角、ウェブで「言説」言つてゐる人つて、何か――同じものだか人だかに影響受けてゐるのですかね? 出所どこだらう。何うもポストモダン(謎)つぽい雰圍氣だが。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html
私はどんなときに使っただろう、と思って調べた結果がこちら。
日記内検索:言説
あれー? もっと使っている気がしたけれどな。とりあえず「ポストモダン的言説」という使い方をしているので、その辺から影響を受けたのだと思う。
使う言葉を変えると、考え方にも違いが出るという実感がある。たとえば「影響を受ける」といえばわかりやすいだろう。読んだ本にある表現を使ってみる、すると考え方までその本の著者に似てくる……ような気がする。
「いやそれは考え方に影響を受けたから、似た言葉を使うようになったのだ」とする向きもあるだろうが、その辺のニワトリタマゴはどうでもよろしい。少なくとも言葉を変えれば考え方に影響は出る。もっと狭めて言えば「言葉遣いをコロコロ変える奴は考えが一定じゃない」となる。あ、それは私か。
私の中にだって一貫した考えはあるけれども、その考えに対する距離がどうも一貫しない。
引用した文にもあるとおり、言葉遣いが似てくりゃメンタリティも似てくる。いや逆か。ともあれ私はここにいて、あらゆる先人の影響下にある。それらはマップ化すればある程度の偏りを見せるだろうし、傾向といったものが読み取れるひともいるだろう。だが私はそれで何か一本筋が通ったようには思えない。ともあれ「私」という一人称に変えたことで私はブレてしまった。そのブレが私にもたらしたえたいの知れないものは、次第に私を侵食し、変えていってしまうだろう。何よりも恐ろしいのは、それでもやはり私はいま、ブラッドベリや江戸川乱歩を想起しているということだ。私はどこにいるのだろう、そんなものははじめからいないのである。
つづく(永遠に)。