絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ナンシー小関、落穂拾い。

 気になったことをいくつかクリップ。
 リスペクトといえばブロンソンズだなあ。小関も誰かと二人で「ナンシー関ならこう言うね」って全然的外れなことを(わかったうえで)書いてりゃ良かったのに……って思ってたらなんとまあ、もう誰かと二人でやっていました。もちろん素で。

先日、『アサヒ芸能』が届き、そこに新連載としてテレビ時評が載っていた。書き手は今井舞、イラストはナンシー小関という人だ。
http://o4kiri.exblog.jp/3539541#3539541_1

ライター今井舞についてはこちら参照、今回の連載とは関係ないですが。

〈春の新ドラマ関係者の方々、こんなに鋭く斬って、ご免なさい!(略)そして、読者の方々にもお詫びします。こんなに笑わせすぎて、ご免なさい!!〉
http://masuno-tanka.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_e89e_2.html

 関係なくはないか、こういう扱いを受けるひとってことですね。
 あとナンシー関の神格化に対する批判。面白くはないけどタメになる。

それほどまでに愛された「辛口」コラムニスト、というナンシー関のすごさは再認識することはできても、そのままでとどまっていていいんですか? とつくづく思うよ。
http://d.hatena.ne.jp/./nittagoro/20060618

 小関の関係ねーことねーこと。そしてこの言葉に安易に追従する奴が出てくるところに小関的なものは転がっているのだ、何だ小関的なものって、リスペクトか(うまくできませんでした)。
 友達のkamikazeさんがmixiナンシー関コミュで発言していたので、許可を取って転載します。

ナンシーさんは、自分を「異形」「規格外」と規定し世間体を捨て去ったスタンスから、「世間を語る」「彫る」ということが唯一無二の芸風に繋がっていたと思うんです。
それは、自分自身を語るときのナンシー嬢の発言の端々から感じ取れることで、知らず知らずのうちに売れっ子になってたというバツの悪さをナンシーさん自身も感じていたことがなんか伝わってくるんですよ。
ナンシーさんの作品は、この世にはいないはずの自分自身が語る、ある意味「神の視点」であり、そこにファンたちは安心して「基準」を任せられた所以でもあると思います。
それはナンシーさんの「覚悟」でもあるといえると思います。
小関氏、そしてその取り巻きは、その「覚悟」があるのでしょうか?
その出発点をも理解せず、ましてや「オマージュ」「リスペクト」という言葉を利用し、その上澄みだけを刎ねる行為を積み重ねる。ましてや「金を取る」という行為を付け加え。

 確かにあの異形性を無視したうえで、何かを語ることはできない……365日、朝起きてすぐテレビをつけて机に向かって原稿を書き始める生活がお前にできるのか?とか。
*上記書き込みの全文をkamikazeさんが日記にアップしたのでリンクしておきます。

この問題は、負の根が深すぎて、ただ「不快」「どうしようもない居心地の悪さ」という「収まりのいい(byナンシー関)」意見は書けなかった。
http://d.hatena.ne.jp/xxx1shot2kill/20060618