絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

『GoGo』 第十一話

 窓のそとから甘い香りを感じて、鮫島はゆっくりと身を起こした。
 夜明け前の薄曇りが空を覆っていた。
 少し離れた大通りを通り過ぎる貨物運搬車の静かな響き、その響きが木枠で囲われたガラス窓を揺らし、四畳半の部屋中を小さな鈴の音で満たした。
 天井から下がった裸電球が揺れていた。
 鮫島は、畳の上に敷いた赤い毛布を細い指で引き寄せて、その中に残った温もりに身を埋めた。
 眉の上で切り揃えられていたはずの、黒い前髪は、下瞼に触れるほどに伸びて、視界を埋めた。壁際に置かれた黒電話と携帯電話の充電器。枕元の電光表示式電子時計が5時37分を指していた。
 禁止事項はなにもなかった。けれど鮫島は外に出ることも電話をかけることせずにいた。日に一度平岡の部下が運んでくる食事を少しだけ食べ、眠る日々が続いていた。

「お前は動物じゃないよな、人間だ、例えようもないほどに人間だ」と、この場所に来る車中で、平岡は鮫島を評した。
「たとえば、弱った体を引き摺って死地へ向かおうとする象か、或いは縁の下にうずくまり欠けた歯を舌で転がしながら我が身の老いに対する絶望と諦念を味わう猫のように、動物は、動物のような人間は「ひたひたと迫る死」の恐怖に対して、よりそうようにあきらめる、あきらめて死と共にあろうとする。だが人間は違う、人間は死にあらがう動物だ、死を知り、死と戦い、死を克服しようとする。お前はそういう悩みからも遠い、まるで死なないみたいだ。お前を育てた人間の顔が見たいよ、それとも飼い主かな」
「今はあなたが飼い主だよ」
 鮫島はぽつりと答えた。
「ああ、そうだ、ぼくが君を買った、もちろん調べたりもしないさ、協定だからね、しかし」
「もう死んだ」
「何だって?」
「調教師はもう死んだ、飼い主がどうなったかは、知らない」
 前のめりになっていた平岡は、珍しくシートに深く座りなおして、そのカラカラ回る口を開けて閉め、ゆっくりと開いた。
「ぼくは、死にたくないな」
「大丈夫だよ、私が守るから」

 アパートの前にあるゴミ捨場には、三日ほど前に捨てられた不燃ゴミが積み上げられていて、回収されないまま放っておかれていた。大量に発生した鴉は、アァアァ鳴きながら飽食を貪り、豚のように肥えていた。
 この地域に限らず、都内では最近、ゴミの収集や食料の配給が遅れているらしい、臭くてたまらないんだ、と、平岡の部下は愚痴を言った。
 町のいたるところで、死体が腐って甘く発酵していた。
 鮫島の鼻には、匂いを感じる器官が存在しない。強烈な腐臭はただ鮫島の舌に甘くすっぱい感触だけを与えた。
 ガリガリガリと、黒電話が鳴った。
 受話器からは、平岡の細い声。
「一匹の老いた鴉が若い鴉に悔い殺される夢を見たよ。若い鴉は、ビニールの城を讃える唄を奉じて、空へ向かうだろう」
 電話はそこで切れた。受話器を置き、鮫島は毛布にもぐった。
 ドアの前では平岡の部下たちが、あわてた様子で車を呼んでいた。
 飼い主を見失うと、犬は吠える。
 やがて鮫島は眠った、もう一度電話が鳴ったら起きよう、そう思って寝た。
 数分も経たないうちに黒電話は耳障りな音を立てて鮫島を叩き起こした。
「何でわかったの、助けに来るかと思ったのに」
「本当に危ないときは、私がそばにいるときだけだよ。どうせ鉄の棺桶みたいなところで本でも読んでいるんだろう?」
「ご明察、霞ヶ関でワイン呑んでる」
「ごゆっくり、私は眠い」
「いや、仕事の話なんだが」
「ミサイルは止められないよ」
「ミサイルじゃない、人だ、殺しに来るってさ」
「誰を」
「ぼくを」
 受話器の向こうで平岡が、うれしそうに笑っているのが、鮫島には見えた気がした。
「わかった」
「待ってるよハニー」
 受話器を置いて、鮫島は考えた、髪を切ったら遅れるかな、まあ少しなら大丈夫だろう。
 着替えて外に出ると、平岡の部下が車にたかる鴉を追い払っていた。鮫島はなんだか楽しくなってしまって、素手で肥った三匹の鴉を屠ると、部下に渡して後部座席に身を沈めた。部下は首の骨を折られた鴉の死体を持って、呆然と立っていた。
「早く出して、鴉なんてそこに捨てておけばいいじゃない」
 やがて車が走り出し、あたりには同胞の死体をついばむ鴉の泣き声と、腐臭だけが残った。