絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

才能について

 優れた発想はどのように生まれるか。ぼくは子供のころ、才能というものは頭頂部より天に伸びるアンテナで、そのアンテナがのびた先には、空にただよう発想の雲があり、雲に触れたとき新しい作品が生まれるのだ、などと夢想していた。
 発想の雲は形も曖昧で大きく空に広がっていて、だからこそ同時期にアンテナをのばした誰かと似たような作品を、同時多発的に作ってしまうこともあるのだ、とか何とか。
 アンテナは生まれつきの長さもあり、また雲との相性もあるから、いくら努力してのばしても、ちいとも雲にたどり着かず、誰かの発見した雲を後から追いかけるだけの人もいる。また、無欲にひたすらのびるアンテナで雲をかきまわして他の人に新しい発想をもたらす人も。
 アンテナは目に見えない。誰の手にも触れない。だからアンテナを折れるのは自分だけだ。他の誰も君のアンテナをへし折ることはできないが、のばすのをやめること、へし折ってはじめからアンテナなどなかったと思い込むのはいつでもできる。
 晴れた日に、頭頂部より天へすぅとのびるアンテナを幻視すると、ぼくはなんだか背筋のピンと張る思いがしたものだ。
 
 これは、脳が受け入れる情報と、その処理に対する寓話だ。ものを作らぬ子供が思いつく、誰にも傷つけられない自分の守り方だ。
 現実はこうだ。手に入れた発想を形にする段で、それは次第に手の中で色あせていく。見飽きたつまらぬものへ形を変えた「発想」に対し、ぼくたちは幻滅し、己の才能にケチをつけはじめる。まるでアンテナが短いせいで、手近なくだらないものしか寄せ集められなかったかのような気持になる。
 だけどほんとうは違う。するする伸びる脳のアンテナは、誰の頭にも同じ長さだけ生えていて、複雑に重なりあった雲の間をフラフラとめぐり、誰もが同じような発想にたどり着くようにできている。
 ほんとうの才能とは、誰もがつまらぬと思うがらくたを組み合わせて、誰も見たことのないものを作り上げることだろう。それは頼りない想いに夢を託すことではたどりつけない。実際に手を動かし、慣れてきたら新しい動きに挑み、修練していく、地味で目立たぬ日々の積み重ねでしかない。
 
 それでもぼくは、今日みたいなうすぐもりの日に外を歩くと、ふと天を見上げて、真っ白な空にぐんぐんと己のアンテナがのびていくさまを想像する。それは雲をこえ、成層圏をこえて星を目指す。アンテナが曲がらないように、ぼくは少しだけ背筋を正す。
 君の頭からも、長くまっすぐなアンテナが空にのびている。