絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

これはチーズですか?

 日曜は恵比寿で昼から教え子の出る舞台を見に行っておりました。専門学校の生徒さんが集まって脚本を作り、演出家をつけずに自分たちだけで作るというもので、公演自体は第二回。私は始めて観させていただきました。今回の上演内容は……オフィスにおける人間関係の小さなズレの蓄積。ええ、これだけです、延々蓄積するだけ。爆発はしません。あるあるネタというのでしょうか、空気の読めない人たちのズレた感覚を笑う前半から、その人々を観察する空気を読む女を観察する後半。彼女は「気遣い」というスキルでオフィスの空気をコントロールしているのですが、自己中心的な人々の勝手な妄想が裏で交わされると、そのパワーは次第に力を失います。やがて彼女は疎外されていくのでは……といった不穏な雰囲気で話は終わり。
 正直「そのあとが観たいんだよ!」という気持ちはあるのですが、実際に見せられると困るんだろうな、という予想も立つのです。たとえば最年長の部長はその正体(自己欺瞞)をハッキリとは明かさないまま舞台から退場していきます。彼の欺瞞が暴かれるシーンを見たいと思う反面、学生の作る舞台に出てくる「中年男性」が、いつでも学生のような内面を持っていることへの違和感もある私としては、むしろ作家の節度をそこに感じてしまう。書けないものは書けない、という態度はある意味誠実であります。
 観劇後、ロビーで挨拶をしたまま歩いていたら壁に激突していまだにこめかみが痛い。駅前のルノアールにて、連れていってくれたマネージャーさんにケーキとコーヒーを奢られながら役者の運用についていろいろ相談を受ける。で、媚と従順さの違いを明瞭にしてあげたいですね、卑下と謙遜でもいいけど、といった話をする。要は卑屈にならずに頭を下げろ、という話なんだけど、でもその人の生き方だからなあ、卑屈を解決すると調子に乗るとか、足元すくわれると恨みがましくなるとか。それでも物を作る仕事なら明白に目の前に出来上がったものがあるので自己診断が出来るからいいんだけど、役者って良い作品に出ないとなんか「残った」気がしないんだよなあ。でも作品が良くなるかどうかなんて、役者一人で決まるもんでもない。困った困った。
 夕方から馬場で脚本の打ち合わせ、といっても書く方ではなく話を聞くほう。面白がったり首をひねったりしながら意見を言って、面白がったり首をひねったりされる。ちょっと行き詰るが、突破口が見つかり一安心。コンセプト中心の脚本って、途中で何を見せるべきか不明瞭になってプロットの迷路に入りがちだけど、シンプルな骨子が出来ると早い。打ち合わせを終えて飲み屋でハマチの刺身やチゲ鍋を食らう。鍋を下げてもらおうとしたら、バイト君が思いっきりまだ熱い鉄の鍋をつかんだので一同ビクッとする。バイト君は鍋をそっと置き、立ち去り、あらためて現れるとコンロごと下げたが、あれは何だったのだろうか。普通はもっと鍋が冷めてから下げてくれと頼むのだろうか、だとしたら本当に申し訳ない。お勧めされた『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』を観て感動。いや映画自体は爆笑なんだが、途中でいくつかホロリと来る場所があり、全体としてはその完成度に感動してしまう。次回作『ブルーノ』の話を聞いたり呑んだりして帰宅。