絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

リップクリームラプソディ

 唇の皮がべろべろ剥けるので、リップクリームを買った。この類のものは買ったことがなく、何がいいのかわからないままドラッグストアへ行くと、ジンジャーマンゴーの香りというおいしそうな売り文句のリップクリームがあった。

 実際使ってみると確かにジンジャーでマンゴーの香り、あまりにその香りが強すぎて何を食べてもジンジャーマンゴー風味になるほどであり、四六時中何かを飲食しているおれはその匂いが嫌になって唇が荒れるままにした。それにいくらジンジャーマンゴー油を塗っても唇の荒れは直らなかったし、なんだか逆にぬるぬるした唇の中で薄く剥けた皮が悪目立ちしているようにも思えた。しかしリップクリームというものの価値をジンジャーマンゴーだけではかっても良いものか? 本来ジンジャーもマンゴーも唇に塗りたくるようなものではない、むしろ刺激の強さに唇からはなるべく遠ざけておきたい組み合わせではないのか?
 そんな思いを抱えたまま近所のコンビニへ行くと、無香料を売りにしているリップクリームを発見した。確かに食い物が通過する場所であるところの唇に、においの強い油を塗るのはおかしな話だった。まず食べ物ではないのに食べ物の匂いがしているというだけでおれには意味がわからない。食べるか塗るか。ひび割れた唇でラーメンをすすり豚油でコーティングするか、オシャレにリップクリームを塗って餓死するか。無香料であればそのような悲劇は起こりえない。ただ単なる無味無臭の油ということであれば、ただのワセリンでいいのではないか? とも思ったが、スティックタイプであること、いますぐ塗りたいこと、リップクリームぶりたいこと(ワセリンではまるでボクサーではないか)等々の事情が重なり、おれはニベアのリップクリームを買ったのだ。
ニベア リップケア 無香料 3.9g

ニベア リップケア 無香料 3.9g

 ニベアという名前には聞きおぼえがあったし、何より使ってみてその無香料っぷりに惚れた。しかも気のせいかもしれないが、唇がツルツルしてきたではないか。これはおそらく無香料であるが故にどんな場面においても塗ることが可能だからだ。つまり、塗る回数が多いと唇はベロベロにならないということだ。なんだ当たり前だ。これで調子に乗ったおれは毎朝毎晩リップクリームを塗り続けた、仕事中も昼休みも夕飯も、おれの唇はリップクリームとともにあり、乾燥とは無縁だった。ところがある日、その蜜月は終わりを告げた。なんかどっかへいってしまったのだ、おれの無香料。嘆き悲しんだおれはそこらへんで適当になんかを買った。それがメンソレータム薬用リップとの出会いだった。 薬用、その言葉におれは惑わされた、剥けかけたこの唇を癒すのは薬用だけではないか? フタを開け唇に塗ると、強烈な刺激臭がおれを襲った。何のヒネリもないメンソレータムの鼻を突く清涼感。おれは我慢した、この臭気に耐えれば唇は元に戻る、それに鼻のとおりだってよくなるかもしれない、おれ胸に塗る奴好きだったし。こうしてしばらくおれは薬用リップを持ち歩いた。だが彼はおれを裏切った。おれの期待は踏みにじられ、砂利にまみれて台無しになった。唇は硬くひっかかり、端から剥けはじめたのだ! 大きく剥けた皮が唇から剥がれていく、一枚、二枚、数え切れぬほどの皮が剥けたころ、おれは薬用リップを机の奥深くに隠した。なんとなくわかり始めていた、リップクリームにはそれぞれ違いがある、人に相性があるように、リップクリームにもまた人との相性がある。薬用だから、マンゴーだから、おれが傷ついたわけじゃない、そうさ季節は移り変わる、乾燥の度合いがひどかっただけかもしれないじゃないか。だからおれはリップクリームを責めない、第一それまで32年間も皮剥けっぱなしだったわけだし。 
 仕方なくおれはマンゴージンジャーに手をのばす、薬用に比べれば甘いその香りにおれは少しの安心感を取り戻す。唇はまだ剥けたまま、小さくとがった角がいくつも唇の丘陵地帯に生えている、上下の唇をこすればその棘はまるでおれを責めるように鳴り続ける、かりかり、かりかり、かり。
 そして思い出す、あの無香料リップの優しさを、ひかえめでおとなしいあのただの油っぷりを。また会いたい、そして唇をやさしく触れ合わせ、時には激しく押し付けるように、塗りたくりたい。むせかえるようなマンゴーの香りに、おれは涙した。