絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

「良い映画」と「好きな映画」の違い。

 おれが好きな映画のジャンルは「ダメな奴が自分の真の役割に気づく」です。
 というわけでおれは映画の価値をそこに見ているフシがある。どんなに駄作だと言われている映画でも「ダメな奴が自分の真の役割に気づく」という場面が描かれていると「いいねえー!」と大喜びしてしまう。いやもちろん「真の役割」が後付けだったり突然降ってわいた能力じゃダメで、なるべくなら「過去にやり残したこと」や「失ってしまったこと」「本当はできるのに自分でダメにしたこと」などだとうれしい。
 
 で、だ。
 
 これ↑を基準に作品の価値をはかられても、共感できないひとには「はぁ」って感じだと思うんだよ、おれだって他人から同じこと言われたら「はぁ」って返すもん。だから、こういう「作品をはかる個人的な価値基準」というものは、なるべく言語化しておいた方がいいと思うんだ。何でかっていうと、無駄な喧嘩をしないで済むから。ネットの感想文とか読んでると、自分の感じることのできる範囲が世界の常識だと思っているひとが結構いるからだ。いるよな、うん、いるいる。
「○○は××という基準を満たしていないからダメだ」「△△は存在そのものが要らない映画だ」等々。でもそれは頭が悪いとか、器が小さいとか、見識が狭いとか、気が狂っているとか、そういうことではないと思うのよ。 だって、普段そういう感想を書くひとを馬鹿にしているひとだって、たまに同じようなことをやっているのを見るから。てことは何かほかに理由があるはず。個人的価値を、絶対基準にしてしまう理由。
 それが、「好き」を言語化してるかしてないか、だと思うんだよ。最近だと福田総理の「私は自分を客観的に見られるんです、あなたとは違うんです」発言なんてのもあったね。自分のことって、どうしてもわかっている気になってしまうんだ。でも本当は、自分が一番自分を騙しやすいし、自分の間違いが一番見つけづらい。だから「好き」を取り出して、眺めてみようってわけ。ね、筋が通ってるでしょう。
「おれは『平凡な人間がウツ状態になって、とくに起伏もなくちょっとした人の優しさに触れて心を取り戻す』映画が好きなんだ!」
「私は『壮絶な戦いのシーンで映像がスローモーションになって、静かな音楽が流れ出す』映画は、何があっても許す!」
「ぼくは『ダメダメなチームに型破りなコーチが来て個性たっぷりの生徒たちが最後に活躍する』映画だったら何本でも観れる!」
「わしは『爆発! ケツ! カーチェイス! おっぱい! 暴力!』という映画だけを観ていたい!」
 こうして言葉にして、外に置いていれば、いつだって参照できるし、客観的に他人から見たら、どう思われるかもだいたい想像がつく。何より、何かの作品を見て、傑作だとか駄作だとか思った理由が、自分でもわかるし、他人から見てもわかりやすい。
 というわけで、ぼくはみんなの基準が知りたいのでバトンを回します。下に例を書くので、気になったら書いてみてくださいね。

好きな映画のジャンルを一行で表現するバトン

例「ダメな奴が自分の真の役割に気づく」

(今までに見た映画の中で、もっとも泣けたり気にいったりしたシーンや展開、ドラマを思い浮かべ、共通点を見つけてください。で、一行にまとめてみてください。それで、名作と一緒に世間の評価が低い作品などが上がってきたら、個人的基準である可能性が高いです。ぼくは「SPUN」が好きなんですが、これは世間的にはアレです)

追記:ちょっと直しました。えー、これは「良い映画」の基準をはかっていると思ったら単なる「好き」だった場合への処方箋なのです。だから「嫌いな映画はないがダメな映画はある」とか「好きな映画は○○で良い映画は△△」っていう答えは出ないはずなんですね。そういう絶対だと思い込んでいた価値基準そのものを疑おう、っていう文章だから。じゃあ単なる相対主義かっていうとそうでもない、他人がどう言おうと自分が素晴らしいと思うものは、素晴らしいからです。要するに、己の歪んだ価値基準を認めて共存しろ、ってことが言いたいんだと思います。歪んでなくてもいいです。