絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

たったひとつのさえたやりかた

 生きていると、自分の罪を思い出して耐えかねるときがある。それは他人から見れば小さなものかもしれない。誰かを言葉で傷つけた、誰かの損になることをした、誰かの失敗を嘲笑った、誰かに嘘をついた。反省も後悔もいつまでも続いている、でも、罪を犯した自分の心はうす汚れてしまって、もうもとには戻らない。
 ねえ旦那、おれは救われますか?祈れば救われますか?死んだあとで救われる?じゃあ祈らねえ。いまこの心にさかさ棘みたいに突き刺さっているのが消えないなら、祈る意味はねえんだ。ああ、生きることが罪なんですか、じゃあ旦那はなんで生きてなさるんで?
 罪を犯すというのは、そういうことだ。では、罰とはなんだろう。

罪と罰

 乱暴な書き方をすれば、罰というのは、人間の価値を量って、そこから犯した罪の分だけ引く、というものだ。
 だから、与えられる罰と、罪を犯すことでかぶるかもしれないリスクを比べたとき、与えられる罰の方が重ければ、誰も罪なんて犯さないはず。これが「刑罰による抑止力」というやつだ。で、いまきみが思った通り、とうぜんながら、与えられる罰の方が軽いというだけで、平気で罪を犯す奴がいる。
 それで、日本では江戸時代、リスクをとんでもなく高くして抑止力効果をあげようとした。馬に乗せて市中を引きまわしてから殺して三日放置したり、刺青を入れたり鼻をそいだりして、誰でも見たらすぐに「ああ罪を犯すとこうなるんですな」とわかるようにしていたんだ。
 でも、昔の刑罰にあった「リスクを高めよう」という発想は、よく暴走した。中世のヨーロッパじゃ魔女狩りなんてものがあって、魔女に選ばれたひとは無条件に拷問されて殺された。裁判もなけりゃ弁護士もいない、リスクを高めるのが目的なんだから、いなくて当たり前だ。罰を、罰を与えなきゃいけない、でなきゃ罪を犯す奴が出てきてしまう。それは人類に何千年も続く、被害妄想みたいなもんだった。
 そこへ、近代ってやつがきて、話せばわかる、って言いだした。反省したり、後悔しているやつの鼻をそいではいけない、人権というものには果てがない、死ぬまで、否、死んでからも人権は続くのだ、ということになった。それで、刑罰の方法が変わった。
 昔は鼻をそいだ。いまは、金と時間をそぎおとす。死刑ってのは、その両方をうばってしまう、というふうに考えればいい。もう、ものを盗んだからって手を切られたり、浮気をしたからって石をぶつけて殺されたり、ウソをついたから舌を抜かれたりはしない。しないように心がけている。たまに、今でもそういうことをしている国の刑罰を見ると、しない国に住んでいるおれたちは、ぎょっとしたり、あれは未開なのではないか、などと思ったりする。でもおれたちは(世界中のきみたちは)ほんの百年前まで同じことをしていたし、外から見る分には、時間を奪うのも鼻を奪うのも、たいして違いがあるわけでもない。
 そう、外から見る分には。近代になって、刑罰は、罰を与えられる側の内面に影響するものになった。懲役刑というものが考えだされ、刑務所は罪人に罰を与えるための箱じゃなくて、罪人を矯正して、反省させるための施設に変わった。ひどく反省した罪人は模範囚と呼ばれ、運が良ければ外にも出れた。
 もちろん、近代なんてものは、地理的にも歴史的にも前後するし、未だに人権の意味がわからないひとも世界にはいっぱいいる。でもとにかく、いまはそういうことになっている*1

御手はあまりに遠い。

 さて、ここで、本題に入る。ある自称映画批評家が映画『ミスと』について書いた文章を読んでもらおう。

キリスト教の発想こそが、民主的な司法制度、とくに懲役というシステムを発明したのだから、一概に感情的に否定は出来ない。つまり、人間が犯した罪を人間ごときが裁いてはいけない=結局のところ神しか裁けないのだから、悪いことをした奴はとりあえず一時的に隔離した上で、あとで社会復帰させてやりましょう(許してやろう)、というわけだ。
こういうアイデア一神教の宗教社会の中でこそ生まれ、容認される。今でも死刑制度が、日本よりはるかに凶悪犯の多い欧米で嫌われている理由もこのあたりにある。逆に、日本で死刑を容認する人が多い理由も、日本がキリスト教社会の共通認識(人が人を裁くのはゴーマンである)を持っていないからに他ならない。
『ミスト』は、当の彼らさえ忘れつつあったこの考え方をガツンと直球でぶつけてくる。それはすなわち、現代アメリカがそれほどまでに傲慢になってしまったぞという警告であり、猛省せよというメッセージにほかならない。このサイトの読者にはしつこいほどに伝えているが、『ミスト』も近年の米映画(みんなで反省しよう!)の流れの中にあるということだ。
超映画批評『ミスト』90点

 別にここで十字軍が二百年間も殺しまくった話をするまでもないだろう。いっぱい殺したし、いっぱい殺された。たいせつなのは、この自称映画批評家が何を言おうとしているのか、ということだ。間違った知識を使って彼が伝えたいことは何か。
 おれは以前から、政治や宗教がひとの目を曇らせることについて悲しい思いをしていた。映画が、国境や言語を超えて通じるものなら、なんで特定の思想が映画を貶めたりできるだろう。

『ミスト』を見ると、観客も映画を作ってきた人々も、神に対しいかに傲慢であったか気づかされる。本来、神にしか許されない裁きを、キミたちは無意識のうちにおこなっていたんだよと、この映画は突きつけてくる。
(同上)

 違う違う、そのセリフを言った役柄を、そのあと劇中では何と呼んでいたかおぼえてる? 「あのジム・ジョーンズがやらかす前に」って言ってただろう? ジム・ジョーンズ、人民寺院で914人の信者とともに、天国へ昇ろうとしたあいつ。敬虔なキリスト教徒はアブない、神の名のもとに何でもやるぞ、あのセリフはそういう意味だ。
 だからといって、簡単に「福音派批判」などと受け取ってもいけない、そんなに単純な話ではないのだ。たとえば『猿の惑星』が印象的なのは、そのラストシーンが珍しいからではない。最初から最後までヘストンは取り返しのつかないことを何とかしようともがく、そして、もがいたあげくに最悪な結末を見る。おれたちはやらかした、取り返しのつかないことをやっちまったんだ。もう何も、もとには戻らない。心に刺さったさかさ棘が抜けない。神も悪魔もない、やらかした罪だけがそこにある。誰も引き受けてはくれねえのだ。
 特定の宗教や思想を喧伝するための映画だと決めつければ、なるほど安心はできるだろう。でもそれでは映画は何のためにあるの。政治や宗教の長い槍があって、その先にちょこんと映画が乗っている。針の先には何本の映画が乗るかを議論したいの? それ、何が面白いの。
 自分の考えや、理想や、言い逃れが根底から揺るがされて、それで何の結論も教えてくれないから映画ってすごいんじゃないのか。スタッフロールの最後まで、ただ聴こえてくる装甲車やヘリの音。それがどんな意味だと決めつけて、映画はもっと面白くなるんだろうか。この前田有一というひとは映画批評家ではない、なぜなら彼は映画を見ると必ずこういうふうに矮小化して、つまらないものにしてしまうからだ。答え合わせを劇場にしに行くくらいなら、家でクロスワードパズルでもしていればいい。
 もし誤訳ばかりする翻訳家がいたら、計算間違いばかりする会計士がいたら、きみはそれに金を払うだろうか、時間を割くだろうか?
 彼を許し、彼を放置することは、映画というものに対する侮辱だ。
 でも、もしきみが、今までに超映画批評を参考にして映画を観たことがあったとしても、おれはきみを軽蔑したり、軽んじたり、蔑んだりはしない。なぜならその罪に気づいたきみは、もう充分に罰を受けているからだ。きみは間違った解釈に騙され、映画を楽しむ権利を不当に奪われた。
 もう罰を受ける必要はない、ブラウザのブックマークから静かに「超映画批評」を消して、もっときみのためになる映画の感想サイトを見つけよう。映画はもっと豊かで広い意味をもつ、そのことを教えてくれるひとが、どこかにいるだろう。

*1:こうして、刑罰に代わって抑止力を担うことになった警察は、事件を未然にふせぐために町中をウロウロしている。あのひとたちはウロウロするのが仕事なんである。