死んだ奴の見た景色を、きみにも見せてやろう。
映画『クローバーフィールド』の感想。
映画を見る
画面に映っているのは、どんなときでも、誰かが見た景色だ。誰も見ていない、つまり写っていないものは、見ることができない。画面の外にあるものを、おれたちは画面の中に映っているものから推測する。誰か、というのは登場人物に限らない、知人かもしれないし、他人かもしれないし、ひとによっては神様かもしれない。そこらへんの監視カメラのときもあれば、あらゆるところにもやもやただよう空気だったりもするだろう。それがドキュメンタリーであれば、当然のようにカメラマン、もしくはカメラマンに指示を出した監督の見たかった景色だ。いや、もしかしたら、それは見たくなかった景色だった可能性だってある。とにかく、それは誰かが見た。
そして、映画を観るということは、その誰かが見たものを、そのまま同じように見る、ということではない。
ちょっと直観的には反対に思えるかもしれないけど、普通の映画は客観視点で描かれているから、感情移入できる。
喋っている誰かの顔、その次にうなずいている誰かの顔。二人を同時にとらえたショットがなくても、なんとなくおれたちは二人が会話しているように思う。このとき、なぜかどちらか一方の主観映像というのは、あまり多く使われない。観客が充分に「おれはいま、劇中のこいつの気持がわかるぞお、一体化しているぞお、おれはお前だおまえは俺だ」となったときに使うと効果的ではあるけれども、それでもやっぱり、見ている最中はなんだかおかしな気分になってしまう事が多い。簡単に言うと、気持ちが覚める。どうしてだろう。それは、自分が自分のことをどう思い出すかを考えてみればわかる。
記憶は圧縮される。
たとえば、いま君が、立ち上がり、冷蔵庫に行って飲み物をとって帰って来たとする。さて、今その行動を思い出すとき、君は何を脳裏に浮かべるだろう。見えていた風景をそのままビデオを見るように思いだすひとはいるだろうか。たぶん、多くのひとは、言葉として思い出すだろう。ボンヤリと行動の軌跡を静止画の連続として思い出すひともいるだろうし、ゲーム画面のようにクォータービューで思い出すひともいる、かもしれない。でも、はっきりとした主観映像で思い出すひとはあまりいない*1。なぜなら、目に映る景色と言うのは、文章や記号に比べて膨大なデータ量があって、そのまま再生すると、びっくりするぐらい脳に負担をかけるからだ。だったら最初から映像を記録するのはやめればいい。
脳みそが便利なのは、見えたものを別のかたちに圧縮して記録しておけるからだ。
たとえばこの図のように。
Aは、リンゴを見て、リンゴのもやもやした外見と、リンゴ、という言葉を覚える。
それを言葉でBに伝えると、Bはリンゴという言葉(圧縮ファイル)を脳内で解凍し、頭の中にあるリンゴの画像を呼び出す。
それは、Aの見たリンゴではないし、Bの思ったリンゴをAは知ることができない。でも、会話は成立する。
おれたちが物事を「連想」できるのは、主観映像で物事を記憶しないからだ。言葉やボンヤリした行動の軌跡は、頭の中で勝手に解凍されて、似たようなものを同じみたいに感じさせる力を持つ。この記憶の仕組みと伝達の仕組みがあるから、モンタージュという手法が活きてくる。
映画というものは、記憶みたいに「圧縮した情報」をうまく見せることで「何かを思い出している」かのように誤解させることができる。おれたちは、自分の記憶を刺激されながら、見たことはないけれど泣けるような景色が広がっているのを「思い出す」。
こうして、誰かの見た景色から、おれたちは記憶を捏造する*2。
きみの方がよく知っている。
「主観映像」には「記憶の捏造」をぶっとばす力がある。なぜなら、そこには何かを見ている誰かが映し出されないからだ。すると、今見えている景色は、カメラを覗いている誰かの見た記憶だとわかってしまう。そこには誤解の余地がない。だから主観映像で構成される映画は、そこにさまざまな工夫を凝らす。これはお前が見ていた景色だぞ、ということを観客に刷り込む。お前だ、お前が見たんだ、思い出せ、知ってるはずだ、お前はここにいた。
カメラマン役の彼ははじめ、自分の役割に懐疑的だった。だけど、ある出来事をきっかけに、彼は自分の役割に気づく。ところが、冒頭に出てくるシーンによって、この映画で語られる出来事は、あるテープに上書きされたものだということがわかる。つまり、この映画は、映画の大半を撮影しているカメラマン役のものではない、ということがわかる。彼はある時ふと現れて、去っていく。あるじのいないウェディング馬車がとぼとぼと進む。去っていく。もどらない。お前は訪れて去っていった。この物語はそう告げている。映画に感じる面白さが、カメラで撮っている、という形式と切り離せない。世の中には、別の形式に翻訳可能なものと、そうでないものがある。クローバーフィールドは後者だ。
でもそれは万人に伝わる面白さじゃない。たとえば超映画批評というレビューサイトではこんな書かれ方をしている。
しかし悲しいかな、わずか数ヶ月とはいえ諸外国での公開が先行したため、私の必死の努力も報われず、大勢の人がすでにネタバレを食らっていることだろう。これが○○による大災害を描いた映画だと、○○の部分を知っている方 にとっては、本作はほとんど何の新味も意外性も感じられない、平凡な出来である。素人映像に最新鋭のVFXという組み合わせは新鮮だが、それだけのことだ。
http://movie.maeda-y.com/movie/01086.htm
○○に入るのが「怪獣」であることを知って、何の問題があるんだろうか。むしろそれが実際にはあり得ない災害であるところに、最大の意義があるのだけれども、その辺はどう折り合いをつけるつもりなんだろうか。地震や竜巻などの自然災害や、テロや戦争による人的災害を描かないことを選んだとき、相手は怪獣以外に何があるだろう*3。
この映画にあるのは「死んだ奴の見たものを、きみにも見せてやろう」という意地の悪さと、死んだ奴に対する底なしのやさしさだ。でも、映画の中で無残に途切れた交流のように、現実の人々もまた、彼らの見たものを自分が見たものだとは思ってくれない。ああ、誰かが見た景色ね、はいはい、お疲れさま。と納得して、自分から切り離す。引用したモノのように、災害の原因が身近でないことに安心するし、それを対岸の火事として平凡と言い放つ。これを「想像力の欠如」と簡単には笑えない。ある一定数のひとびとが、この愚にもつかない感想を参考にしているのかと思うと、絶望的な気持になる。
でも仕方がない、現実だって似たようなものだ。くそ。話がずれた。
さいごに、ひとつの映画を紹介しよう。1994年にベルギーで作られたフェイクドキュメンタリー『ありふれた事件』だ。
連続殺人犯の素顔をドキュメンタリー・タッチで描いてゆくベルギー産の異色作。生活の為に平然と殺人・強盗を犯し、良心の呵責を微塵も感じていない主人公ベン。彼の生きざまをドキュメンタリー映画の撮影クルーがフィルムに収めてゆく。犯罪哲学を饒舌に語り、詩を朗読し、カリスマ的な魅力を放つベンにいつしか彼の行為を記録する側にいたクルーは、それに参加するようになってゆく……。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=1439
死んだ奴の見た景色を、君にも見せてやろう。
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*1:例外はある。ビデオの編集をしているときなどはフレーム単位で自分の見た映像を思い出したりもするけど、それは結局何度も見ているからおぼえただけであって、ここで話している「情報の圧縮」という工程をスッとばしただけのことだ
*2:だから、ナレーションですべてを説明されると、頭の中で解凍されたものと違ったり、強制的に解凍されたような気がして、イラっとするわけだ。また、連想できない唐突すぎるラストシーンに感動したり、伏線のない超展開に爆笑するのも同じ仕組みだ。でも、この場合は評価が二分することが多い。それはきっと「連想できないけど観たあとで思い出すとわかる」とか「いくら考えてもつながらないのに気持がいい」とか、観終わったあとで考えることができるからだろう。
*3:このひとには、あの映画の面白さが全然伝わっていなかった、ということだ。むしろそういうひとに対するサービスシーンが、よけいなお世話になってしまった。それはとても悲しいことだし、もっと無様な脚本であったとしても、ちゃんと客観映像のある怪獣映画として作っていたら、彼らの評価は高かったのかもしれない。それはいつか誰かが証明してくれるだろう