絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

関わりたいひとびと

 ナンシー関の「信仰の現場」みたいなことを書こうと思ったけど、だったら読めばいいんじゃん、って思ったので紹介するだけにとどめる。タイトルの「関わりたいひとびと」は、「信仰の現場」に学んだことを発展させた話になる予定だったんだけど、眠いからあとで。

信仰の現場―すっとこどっこいにヨロシク (角川文庫)

信仰の現場―すっとこどっこいにヨロシク (角川文庫)

以下、関係あるかもしれない話題から引用。

決断主義とかよく聞こえてくるのですが

髭生やしたおじちゃんが「だがしかし!キエエエエエ」とか絶叫しているような、その横で気の弱そうな人が「利害対立の調整以外はらめえええ!」と絶叫しているような、そんな危険な感じがしないとダメなのです。
http://www.zeitenblicke.de/2006/1/Puschner/Puschner3
ユウガタ

まず、岩田の『現代の貧困』であるが、この著者は怒っている。
 何に怒っているかというと、「貧困」は戦後ずっとあったのに、社会はそのことを「発見/再発見」せずに、まるでなかったかのようにすごしてきており、そしてようやくここにきてワーキングプアとか格差とか騒ぎはじめているからである。いわば「遅いっつうの」というわけだ。
紙屋研究所 岩田正美『現代の貧困』

知識格差社会

 そうはいっても、一人の人間が何もかもを知るのはとても難しい。そこで、互いに情報を交換すれば、より良い結論が導けるんじゃないか、と考える。議会制政治とか、ホームルームとか、朝の会議とか。ここで一番問題になるのは何か、結論が平凡なものに帰結しがちなことか、議論の末に声のでかい奴が結論を全てかっさらうことか、まあそれらも大きな問題ではあるけれども、一番の問題は何が問題かわからない場合が多いということだ。
先生「何がわからないの?」
生徒「何がわからないか、わかりません」
という奴である。
 そこで、ひとは信仰に走る。信仰とは、わかりやすい問題設定のことなのだ。ロックは体制に反抗し、エコロジーは自然に迎合する、神は異教徒を許さず、私は「信仰という問題設定」という問題を設定し、それについて書こうとする。
 そして知識格差があらわれる。問題設定の段階で多くの情報が排除されるが、その排除基準は曖昧だ(結論ありきの議論、針の先に何人の天使が乗れるか問題、etc...)
 知識格差は昔からあった。昔と違うのは、その格差が誰の目にも見えるようになった、ということだ。あらゆる場所で格差は衝突を生む。何が問題なのか?(また問題設定だ……)知ることが簡単になっても、理解することが相変わらず難しいのが問題だ。それに「知る」ことと「理解する」ということの区別すら共有されていない場合、何を問題に設定すればいいだろう?
(つづく)