カレーと肉じゃがの違い。
ここ数日こちらのエントリに対して延々文句を書いているのですが、今日、こんなメッセージをもらいました。要約して紹介します。
科学と宗教をごっちゃにしちゃ駄目だ、という話。
利己的遺伝子の話を分からないと駄目?
>人間はその原因を探るのだ。それは、生理的作用なのだ。その作用だけが、進化によって生まれたものなのだ。
原因を探る。これは生理的作用かな。どっちかというと、これこそ道具。科学のような。
伝わりにくいのは、これが原因だったのか!と今わかりました。
利己的遺伝子よりは『延長された表現型』という本を読んだ方が良いと思います。延長された表現型というのは、簡単に言うとこういうことです(超乱暴な説明なので、その辺は加味してください)。
「表現型」というのは、特定の条件下で、遺伝的に決定される形質のことです。たとえば、蝶々や鳥のカラフルな羽、貝の殻模様などを指します(極端に言えば哺乳類の手足とか魚のうろことかもそうです)。表現形は、遺伝子が発生に直接の影響を及ぼす範囲に現れます。では「延長された表現型」とはなにか。
木の枝を使って巣を作る、ビーバーという動物がいます。しかし、おそらく、ビーバーは「巣を作ろうと"思って"巣を作っている」わけではない。けれど、立派な巣はできあがり、水をせき止めてダムになる。この場合、ダムは、遺伝子にとっては延長された表現型となります。
ビーバーは生理的作用にしたがって、木の枝を組み合わせます。すると巣ができあがり、とても都合が良い環境が手に入ります。でも、あらかじめ巣の設計図が頭や遺伝子の中に入っているわけではない。あくまで、だいたいの手順が連鎖的に起こるような仕組みになっているだけです。
この場合、木の枝は道具なので代替が可能ですが、巣へ至る道筋は代替が不可能です。
木の枝をプラスチックのワイヤーに変えてもビーバーは巣を作ることができますが、完成する巣そのものへ至る道筋を変えてしまっては、巣はできあがらない、ということです。
たとえ話としては、ケーキがよく例に出されますが、私はカレーが好きなのでカレーでたとえます。
材料があって、レシピがあれば、カレーは作れます。たとえジャガイモがなく茄子しかなかったとしても、他の材料がそれなりにそろっていれば、カレーはカレー。しかし、材料と完成したあとの写真だけがあっても、カレーは作れない。レシピが肉じゃがであれば、できあがるのはカレー味の肉じゃがです。
乱暴な要約ですが、こんな感じです。
で、科学と宗教は、レシピなわけです。ビーバーにとっての「巣を作る方法」。科学も宗教も、それぞれに同じことをやるための、別のレシピです。同じこと、それは真実の探求。でも方法は違う、だから出来上がるものも違う。
使う道具はそれぞれに代替が可能だから、パッと見はごっちゃになっちゃう。しかもレシピを間違えたまんま、カレーだと思って肉じゃが食ってる奴もいるから話はややこしくなる……というわけです。
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池田信夫は「科学と宗教の境界は曖昧だ」と言う。それはカレーと肉じゃがの境界が曖昧だと言うのと同じことです。
池田信夫は「本質的な問題は、神がそれほど無意味なものなら、なぜ宗教が世界に普遍的に存在するのか、ということだ」と問い、その証拠が示されていないから不備があるという。とんでもない、証拠なら示されているのです。宗教が普遍的に存在したのは、それが延長された表現型として有効だったから、それだけです。科学と同じ理由から生まれた宗教というレシピは、長いあいだとても有効なレシピだったのです。
でも、科学はこと真実を探るということに関しては、宗教の比ではなく有効だということがここ数百年でわかってきました。で、宗教は、ある種の人類にとって、すごい邪魔になるってことも、わかっちゃったんです。だって進化論を学校で教えないのもゲイを差別するのも自爆テロをするのも全部宗教なんだもの(スターリンは偉大な宗教家です!たとえ話!)。