絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

ああー!わかった!百目じゃダメなんだ!

それでも失明ネタ歩きタバコをやめさせたいなら、妖怪百目の子供を町中ねりあるかせたらいい。失明確率が上がるので、啓蒙効果も増すでしょう。
歩きタバコ撲滅のために子供の失明ネタを出すのがキライ

 この記事に違和感をおぼえて、非常に不愉快でした。というのも、私は基本的に残酷な冗談を好むタチなのですが、この冗談に笑えなかったのは、自分に関わることだからかもしれないからです。私は過去に、車から落とされた煙草の灰で服に穴が開き、火傷をしたことがあるのです。それでこの文章を楽しめないのではないか、私は普段から残酷な冗談を書いたりしているのに、自分が関わったとたんに笑えなくなるのではどうしようもない。非常に不愉快です。
 だけど、どうも責任が私だけにあるように思えない、この文章にはどうも、違和感をおぼえる。
 それが何かを考えていたんだけど、いまわかりましたので報告します。
 妖怪百目、ってのは実在しませんね。少なくともいま呼んだら出てくる程度には実在してない。だけどこの文章の主張は「妖怪百目がいっぱい失明すれば啓蒙効果もあがる」ってところにある。もちろん、行政機関も実在しないものはねり歩かせられません。そんなこたぁわかってる。てことは、ポイントは妖怪百目じゃなくて「失明確率が上がる」ってところにあるわけです。つまりこの文章の違和感がそこにある。ためしに改変してみましょう。

それでも失明ネタ歩きタバコをやめさせたいなら、子供を町中ねりあるかせたらいい。失明確率が上がるので、啓蒙効果も増すでしょう。

 妖怪百目、を抜いてみました。でも意味は通りますね。本当に書きたかったのは、こういうことなんじゃないですか。子供たちがウヨウヨと繁華街を歩き回り、歩き煙草にぶつかって失明していく悪夢的イメージが広がり、ちょっと面白い。でもこれでは確実に怒られます。
 で、妖怪の中には、自然現象やなにやらを説明するためのものの他に、ちょっと大きな声では言えない冗談を言うために生まれたものがいるらしいんですな、泥田坊の話なんかが有名ですが、こういう解釈は、その異形性を説明するのに都合が良いらしい。
 ええ、妖怪というものは、総じて異形でありますが、その理由は何かと問われて即答できる者はいない。誰も江戸時代から生きてはおらんからです。そこで、本当にそんな姿のものがいた、と考えるより、何もないところから造った、と考えるよりも、何かの本当にあるものの、たとえである、と考えた方が、解釈としては納得がいくんですな。
例:泥田坊の頭の真ん中に縦に割れた目があるのは、それがちんぽのたとえだからである。
 妖怪百目というのも、水木せんせえがユングの本に描いてあった絵を元にして考えたものらしいです。これが「人の目を気にする人は全身に目がついている」というような「たとえ図」だったらしい。らしいらしいですみません、今度調べておきますね(たぶん『人間と象徴』って本)。
 アーつまり、妖怪百目の目は、生物的な眼球ではなくて、周りを見ている、という心象のあらわれなんですね、だから百目の目を突いても、失明はしない。ところがネコプさんは百目を子供たちの目の代わりに百目を使った。違和感、ここです。
 子供を失明させたいなら、子供を失明させろ、とちゃんと書くべき。妖怪には、言いづらいことを代替する役目があるけれども、その役割を間違えると、違和感をおぼえます。
 というわけで、スッキリしたので仕事に戻ります。