絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

当たり前のことが、忘れられている。

なぜ人間には人権があるのにくじらにはくじら権がないのですか。
人権が認められる根拠を人間の知性に置くのであれば、知的障害者は人権がないことになり、
知的生物であるくじらにはくじら権が認められることになりませんか。
また、人権を人が人であることにより認められる権利と解釈するにしても、21世紀ではその権利の保護の対象をくじらにまで拡げ、人類が絶滅した後の文明の担い手としてのくじらを守ることが要請されているような気がするのです。
この思想をみなさんはどのように思いますか。
Yahoo!知恵袋より

 まずはじめに、わかってほしいことは、くじらと人間は、違うということだ。
 まず見比べてほしい、サイズが違う、くじらはでかい。そりゃあもうくじらのでかさと言ったらハンパない。人間をひと呑みできるほどでかい。もうそれだけで、人間とくじらを同等に扱ってはいけない理由になるほどだ。
 ではなぜ人間とくじらのサイズは違うのか。おもな理由は住む場所だ。
 生き物は住む場所によって形が違う。その場所にフィットした生き物だけが、その場所で生きていける。だが、進化は便利な方向だけに向かうわけではない。望んだとおりに体は変わらない。環境が変わり、生きるのが難しくなった場合は、周囲の環境を変える方向へと、生き物は進化する。巣の穴を掘る、唾液で泥を固める、石で壁を積み上げる、木を組んでダムを作る。そのような能力を得たものだけが生き残る。
 くじらの進化は、海という広大な環境の中で優雅に生きる方向へと進んだ。環境を変えることはできない、だから体を適応させた(者だけが生き残った)。では人間は? 私たち人間は、過酷な環境を自分にとって都合の良い方向へと変えられるように進化した。
 人間の体は生物として見ると無様なものだ。筋肉は鍛えなければ育たず生まれてすぐに歩くこともできず、皮膚は弱く服や靴が必要であり、目や耳も弱く数キロ先の物事を観察するのも難しく、内臓も弱いために食物を調理する必要がある。
 私たちは本能と学習によって、人類が他の生き物に比べ、弱いことを知っている。
 だから、人権というもので、保護しなければならない。人間が人権で保護されるのは、私たちがくじらと並んだときに明らかに生物として劣っており、ひ弱ですぐに死ぬ生き物だとわかるからである。
 
 そして「人権」が通じるのは、相手が人間のときだけである。
 たとえば、肉食獣には優れた筋肉と牙と爪があり、獲物を自由に狩るという生まれ持っての権利がある。想像してみよう、きみの目の前に牙を剥いた肉食獣がいる。腹をすかせ、君を見て興奮している。食欲の解消は、どうやら彼らの取り決めた基本的肉食権によって保護されているらしい。君にはそれに抗う筋肉も牙も爪もない。さて、どうすれば君は身を守れるだろうか? こうして人類は、ひ弱な体の代わりに高い知恵と器用な手先を手に入れた。無様な体から生えた奇妙な複数の突起は、大きな肉食獣を倒すに足る鋭い剣や速い弾丸、強い鉄の網を作り出すことができた。そしてそれらの武器を用いて、人類は他の人類を守ることに成功する。
 獣に話は通じない、君たちの人権を守ってくれるのは、人間だけなのだ。
 
 なぜ人間には人権があるのに、くじらにはくじら権がないのか。これでわかってもらえたと思う。
 そもそも人類を守るためにつくられた権利など、くじらは必要としていないのだ。それに、人類が絶滅すれば、人類の文明など消えてなくなってしまうし、くじらが独自の文化を捨てて人類の文化を継承しなければいけない謂れなどもない。
 
 ところで、世の中には「人権は天与のものではない、義務を果たさなければ人権は得られない」と言い出す人がいる。
 考えてみよう。君たちの目の前に大きな肉食獣がいる。黙っていれば君たちは彼らのエサになる。手持ちの武器がなければ、武器を持っている者に助けを求めるしかない。 
 さて、このときもし、武器を持っている者が、武器を持っていない君に、こう言いだしたらどうだろう。
「義務を果たさぬ者は守らぬ、御免」
 ぱくぱくぱく、君は食べられてしまった。もう君の言葉は誰にも届かない、肉食獣の胃袋の中で君は消化され糞になり地に戻りやがて草木の栄養となるのを待つだけだ。
 だから「天与のもの」と取り決めているのである。なぜなら天与のものであると取り決めておかないと、誰かが勝手に人権を奪ったり踏みにじったりできるからだ。人間は、基本的には喋れるだけの動物であるから、放っておけば何でも奪うし踏みにじる(あなたがしなくても、他の誰かがするだろう)。「人が人を殺してはいけない」という取り決めと同じように、人権もまた侵してはならない。
 たとえばとある遠くの国では、女や子供には人権がない。勉強したり、外国に行ったり、自分で考えた物事を喋ったりすると、殺されてしまう。かの国では、人権は天与のものではないし、女や子供には与えられることは決してない。同性愛者に人権を与えない国もあるし、勉強する者が皆殺しにされた国もある。つまり、天与でない人権を選ぶ国というのは、選ぶ側が肉食獣であり、君たち捕食される側の人間の人権を自由に奪ったり踏みにじったりできる国である、ということなのだ。
 君が男で権力者で金持ちで高学歴であっても、そうでない側であっても、勝手に奪ったり踏みにじったりしてはいけないよ、くじらにすりつぶされないように、お互いを守ろう、というのが、人権という約束事なのだ。
 これは信じるほかない。信じておかなければ、君は牙を持つものの言いなりになるしかないのだから。たとえそればまぼろしだとしても。
 まぼろしは、信じなければすぐに消えてしまう。はかないものだ。お金や、法律と同じように、それに価値があると信じるしか、それらを守るすべはない。
 
 人権とは、牙を持たぬ人類を守るための、まぼろしの牙なのだ。