絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

id:laisoさんのブクマが面白い。というのも今更な感じではあるが。
このエントリのあとに

正直に言うけども、原作どおりだから素晴らしい。という言い方がね。面白くない。どうしたって、それは2006年の新作映画のほめ方としては不純じゃねーか、と思うのだよな。この映画に映し出される、ストーリー自体が「今」に即したものではない。ディックが体験した「過去」を基調としていることに、根本的な違和感がある。
過去の鏡は現在を写すか

このエントリをブクマしてみせる。

実際、ほとんどのマンガ原作の映画は、客がマンガとの「答合わせ」をしに行くという感じだ。『NANA』の場合も、キャラクターからストーリーから、さらにはセリフまでも非常に忠実に映像化している。だからこそ、お客さんはキャラの正否の話ばかりしかしないし、そのほとんどが不満を口にする。
『NANA2』の失敗と日本映画の今後

もはや芸と言っても過言ではない
 laisoさんのブクマ先を見ていると、何かを知った気になり、何かに感づいたような錯覚をおぼえ、何かを言ったつもりでニヤニヤしてしまう。いやしかし実際に私が見つけた何かとlaisoさんの掴んだ何かが同じであるはずもなく――まして悪意をや――私は改めて何を伝えたいかを明確にしなければならないと思う。
 映画『スキャナーダークリー』が、なぜ原作通りに作られた(ように見える)か。
 原作を知っている観客は、答えあわせができて喜んだのではない。もしそう言った者がいたなら、それはこの作品のどこが良かったのかを、言葉にできなかっただけなのだろう。この映画は……あなたは、自分の手で自分の体を傷つけたことがあるだろうか?何かの薬物や、道具を使って、肉体に損傷を与えた記憶があるだろうか? もっとわかりやすく言うならば、あなたがたは毎日自分の肉体を消費してだんだんと死んでいっている自覚があるだろうか?
 私たちの意志、そして命は、危ういバランスの上に成り立っている。この映画は、そのことを、持ちえる全ての力を使って、伝えてくれる。その力は、ディックの原作が持っていた意志を、映画という媒体を使って、更なる大きなものへと変貌させる。映画でなければ表現し得ないものが全編を覆っていたことが、その証拠である。
 そう、あなたはディックではない。もちろんリンクレイターでもなければ他の誰でもない。あなたがそう思う間、あなたは不死人なのだ。そう、あなたは私ではない、私はあなたではない。本当にそうだろうか? どうして私はあなたではないのだろうか? あなたが私ではないと言い切れる証拠は何か? ディックは私なのか? あなたなのか? あなたはディックなのか?
 それがわからなくなることが、どうしてそんなに怖いのだろうか。
 『スキャナーダークリー』はなるほど、いびつな作品だ。けれど彼の言うとおり原作を無視すればそれは別の作品として、まっとうな姿を見せただろう。まっとうな姿、つまりもはやタイトルは意味を成さない――暗闇にスキャナーはいない――その作品は、何と呼ばれるべきか。
 映画『スキャナーダークリー』が原作通りに見えるのは、それが薬物中毒の本質というべきものを捉えていたからだ。薬物中毒は文化ではない、ラリ公はどの時代にもいる、二千年前には砂漠でラクダの皮を着てバッタを食っているラリ公がいた、今モニターの前にいる奴の顔を見てみろよ、電源を切ったモニターに映る顔。
 わからなかったのは過去ではない。それはやはり、現在から7年後の話なのだ。あなたと、私の。