絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

愛憎劇としての野球。

 元気そうな手紙で安心しました。けれど無理はしないでくださいね。
 そうそう、あの話が載っていたのは、塚本邦雄の『麒麟騎手』です。
私も勘違いをしていて、野球を九人の唖に例えたのは寺山でした。未刊詩集の中にある短編だそうで、もしかしたらもうどこかで刊行されたものに収録されているかもしれません。
 短いので、冒頭の一文を孫引きしておきます。

二人のさびしい唖がいた。一人はピッチャーという名前で、もう一人はキャッチャーという名だつた。二人は言葉の代わりにボールを投げあうことでお互いの気持ちをたしかめあつていた。二人の気持ちがしつくりいつているときにはボールは真直ぐに届いたが、ちぐはぐなときにはボールは大きく逸れた。
寺山修司「九人の唖の物語」

 続く一文「この二人の唖の姿に嫉妬する男があらはれた」に、塚本はホモセクシュアルを見てとります。

かつての二人の、水も漏らさぬ堅密な対話は、七人の監視の中で晒しものになる。そして妨害者一人をも容れた計八人の愛憎の黙示は、衆人環視の中でことごとく秘密を見透かされることになり終わる。
塚本邦雄麒麟騎手』

 いやあ、読みかえしたらエロいことエロいこと。23p〜26pのあたりです。ちなみに、蓮實重彦の野球話は、キャッチャーは二重の外部で云々という話ですか、それはまた、別のお話です。
 とりいそぎの返事でごめんなさい、最後の挨拶も塚本に倣いましょうか。

このつぎ目の覚めるやうな手紙あげる。きつと。

 それではまた。

麒麟騎手―寺山修司論

麒麟騎手―寺山修司論