絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

コンナノ呼ばわりはいいんだけど。

 これは、おれがなにを基準にどう考えているかについての話だ。

先生は、やっぱ本物に思い入れのある人はこういうの許せないんだろなー、とか最初はひとごとのように思っていたのだが、コンナノとかコンナノとか、いわゆる有名どころがこぞってけしからんと言い出し始めると、まるで世間的には「ナンシー小関は批判してもオッケー」いや「ナンシー小関を批判しなきゃ文化人じゃない」みたいな雰囲気になってきたので、よし、先生も一発ナンシー小関とやらをおちょくってみるか、とやる気になったのだが
http://prof.suemeweb.com/log/eid676.html

 有名どころと名指しされてうれしい限りだが、おれの書いたことの追随者なんぞ見たこともなくて「麻草の言うことはうさんくさいから信じるな!」とかいう批判者ばっかり目にしているおれはどうも納得がいかないのだった。誰かおれの信者を連れて来いよ!仮想的な盲信者を設定して批判する手法はそれによる具体的行動がないと空振りに終わるから注意だよ!以上余談。
 上の引用で気になったのは、やっぱり日日ノ日キと並列されていることかな。光栄なことだと先に書いておくけど、ずいぶん乱暴なくくりだとも思う。確かにおれの文章もエモっているし、似ているけど違う議論に関しても否定しないで引用してたから仕方ないんだけど、誤解されたままじゃずいぶんと悲しいから、ちょっとだけ説明しておこう。
 まずは日日ノ日キから、当該記事の一部を引用してみる。

愛がないのだ。そのオリジナルよりも気軽にちょちょいのちょいこんな感じでしょ?こんなの簡単じゃない?バカみたい何年もやってて。みたいな視点を感じてしまうのである。
 そこに真の意味のリスペクト、尊敬はない。ないくせにあるフリをするからおかしなことになるのだ。開き直る覚悟がなけりゃ、オフラインでやってくれ!
http://d.hatena.ne.jp/./amiyoshida/20060618/1150615794

 うんまあ確かに似ている。手軽にやられちゃ困る、という点に関しては同意しますよ。だけどおれが「あれは彫刻ではない」と書いたことと「手軽に真似するな」ということは、実はあまり関係がない。あとおれは、パクるなら尊敬しろとかリスペクトだとかそういうことは気にしない。精神性というものは、作品を鑑賞する上で付加情報以上の価値はないと思う。まあそうではないと思いたいひとがいるからナンシー小関も「リスペクトしています」なんて答えたんだろうけれどもさ。相手が本当に何を思っているかは想像することしかできないし、その想像した相手に対して本気で怒るのは、まあだいたい被害妄想なので徒労に終わる。
 おれは、こう書いた。

繰り返す、これは手法の模倣ではないのだ。
彼は彫刻刀を握らない。
だが、そのことだけが、軽視され、隠蔽されていく。
http://d.hatena.ne.jp/./screammachine/20060617#p2

 これは、苦労してないからダメって意味じゃなくて、彫刻刀で彫られた似顔絵スタンプの完璧な模倣は(今のところ)不可能なんじゃないの?って意味だ。不可能なのに、可能っぽい顔をするのってインチキじゃないかなあ、と思うわけだ。
 もしも、完璧なナンシー関風版画風画像作成ソフトなんてものができたならば、おれは何の文句も言わない。写真をトレースすることなく、テレビに映し出されたいくつものサンプル動画から導き出された「似ているとその対象人物を知っている多くの人間が感じる近似値」を読み取って線に変えて、それにぴったりのセリフか効果音を書き加えるソフトができたなら、ナンシー関ver2.0とか名づけて売り出したっていいと思う。
 その辺が誤解されるとつらい。一番最初に小関を批判したid:samurai_kung_fu:20060613にも書いてあるじゃないか。

30分くらいで小関レベルの物は簡単にできる。
ナンシー小関。いらないな。

 なぜひとはオリジナルを崇拝し、模倣者を批判するのか?だというのになぜ一部の模倣者は高い評価を受けるのか?答えは意外と簡単だ。
 誰も、自分で作れるものに価値は見出さないのである。
 だからこそパクリでも「すっげー」と評価されるものはあるし、オリジナルでも評価されないものだってたくさんある。「これに価値は見出せない」という評価のかたちとしてナンシー小関ジェネレーターは生まれたんじゃないかな。そこに努力とか根性とかリスペクトとか、精神性の介在する余地はない、よね?
 手法は模倣されるべきだし、情報は複製されて多くの人間が共有するべきだと思う。
 だけど、それが間違ったまま伝わっているとすれば、是正することも必要なんじゃないだろうか?
 ナンシー関ナンシー小関の区別がつかない?まさかね、本当に区別がつかないならそりゃお気の毒。だけどもし痛烈な批判に対する恐怖心でそう書いているなら、無知や理解力の低さを推奨することがあなた自身の行動に矛盾を生じさせていることもお忘れなく。あなたがブログに記事を書けるのは正しい手法が正しく模倣され、改善されてきたからであって、無知や無理解はその邪魔にしかなっていない。
 間違ったコードじゃプログラムは走らない、そうでしょ?
 その間違いが技術と精神のどっちにあるか、っていうか、どっちが問題かって言えば、おれは技術だと思うんだよなあ。徹底した努力の前にやる気は無力、という話でもある。まあたかがナンシー関とも言えるが、されどナンシー関とも言える。たかされである。なにがであるだ。結局おれはこの一ヶ月でナンシー関って何度打ったんだ?生涯ナンシー打率で言えば上位に位置する季節と言えるだろう。上位って何だ、またやる気か。
 スミルノフ教授のブログには「マジレスは勘弁」って書いてあるから、これはスミルノフ教授に向けた返答ってわけじゃない、ってことにしておいてもらおう。