絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

努力と線越え

要約:ジャンプ漫画では努力があんまり描かれなくて、それは何でかというと読者が見たいのは線越えだからだ、という話。
 まぁ努力レスといえば『ONEPIECE』ルフィのギアチェンジにとどめをさすわけですが、昨今のジャンプ漫画ではほんとうに努力らしい努力が描かれなくなってしまった。なぜかというと地味な努力話というのはアンケートがよくないからで、パワーアップのための努力話はどんどん話数が削られるわけです。たとえば『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」とか。昔は「敗北→努力→発見→勝利」という流れがあったのに、今は「敗北しそうだけど勝ちます」と「アンケート気にしなくていい時期なので連載マンガ全部努力話」とかになってしまった(仔細はとばしますよ)。
 ところが、読後感はあまり変わらないわけです。前述のギアチェンジなんかは失笑を誘いましたが、作者もそんなことはわかってるからギャグにしてしまう。じゃあ何で主人公が努力していないのに、読んだときに満足感があるのか。それは、少年漫画が努力で描こうとしていたのは「努力そのもの」ではなく「努力しなければ越えられない線を越える場面」だったからです。
 ジャンプじゃないですけど、高校野球を描いた野球マンガ『クロカン』では、乱暴者の監督が弱小野球部の部員達の前に一斗缶を置き「おれのコーチを受けたい奴は、ここに金を入れろ」と言います。もちろんそのあとで、地獄の肉体訓練と、離反、再結集という展開が待っているのですが、読者はここで線を越える若者たちの姿を見るわけです。
 昨今の少年漫画に「戦いながら成長する主人公」が多く登場するのは、アクションのテンションを落とさずに「敗北→努力→発見→勝利」を描くためなのですが、マンガとしての結果を残すのは、その線越えをうまく描いているものだ、というわけです(だから一護は何だかよくわからないけど線を越えたのでいいのです)。
 そして、既に線越えは戦いの枠をとっぱずしてしまった。主人公はどんな場面においても一線を越えることで主人公としての役割を果たす、ということがわかってしまった。
 『テニスの王子様』と『DEATH NOTE』がすごい(あらゆる意味で)のは、それが理由です。とかいうことを最近のジャンプを読んでいて思った。そして昔は昔はと書いていながら『キン肉マン』はすごい理屈で線越えまくってたなあ、って思った。「昨今」関係ない、昔っからそうです!