絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

映画はひとを変えなくてもいいのか。

要約:id:screammachine:20060227#p1を題材にした、id:toshi20からの異議に対する反証。id:VanDykeParks2に対する同意の表明。

 人って変わろうとしなきゃなかなか変わらないだろう。変化を望もうとしなければ変わらない。それはあくまでも、その人の「意思」の問題だろうからだ。
id:toshi20:20060227#p1

 だからその意思をかたち作るのは何か?と問うておるのだ。脳は得た情報をもとに思考を組み立てて意思を選択する。望もうとしなくても変化は起こる、絶対に起こる。起こった変化に対してどう対処するかは、ひとそれぞれだ。

 その見た子供がさ、果たして「差別の種を感じる」なんて考えは起こるのかな?と考える。俺が考えるに、たぶんそういう思考は起こらないだろうと思うんだよね。それはこの映画を見て変化を望んでいないからだ。ただ、目の前に起こっていることに感情を示すのみだろう。

 その感情が「隣近所の奴を殺す可能性がおれの人生にもあるのだ」であってなぜおかしいか。だいたい徳保氏も子供を例えに出していたが、子供はそんなに頭が悪いとでも思っているのか、失敬な話である。

 俺が言いたいのは、変わろうとしない人に「変われよ」って言ったって無理な話だ。ということ。

 その通り、人生にはあきらめも肝心だ。あなたが「変わらない」という信念を持ち続ける限り、あなたの視界には変わらない風景がうつる。

 俺が映画を見る上で一番正しいと思うのは、政治とはなーんも関係なく娯楽を楽しめる感性だ。俺はあるニュースのインタビューで、韓国の女子高生が「日本てサイテー」と答えたその口で、ハウルの動く城はどうだった?と聞かれ、「ハウルサイコー」「かっこいー」と答えるのを見た。

 それは、ハウルを作った宮崎駿個人とジブリって会社と日本という国を区別できているだけであって、映画を楽しむ上で自己の矛盾を放置しているわけではないと思う。国と個人を区別できないというのは、かなり程度の低い差別だし、第一その女子高生が差別感情で「日本サイテー」と言ったのかどうかもわからん。まあ『ハウルの動く城』がどこの国で作られた映画か知らない可能性もあるけど。

 戦争は反対だけど、戦争映画は好きだ、という人がいる。殺人がこの世からなくなればいい、とは思うけど、ガンアクションは大好きだ、喧嘩はしたことないし痛いの嫌だけど、カンフーアクションはちょー燃える!不倫はいけないと思ってるけど、メロドラマは大好き!・・・という人々もいるわけじゃん。

 だからそういうひとたちは(おれも含めて)殺しているさまを見ている瞬間はその意見に賛同しているわけですよ。でなきゃアクション映画を観ながら「いたたた、殴るなよ」って思っていることになる。なんだそれは、楽しいのかそれで。
 見ている最中はその表現に共感し、見終わったあとで信念をもとに感動を帳消しにする。それじゃコストかかりすぎなんじゃないか、娯楽って数日間は楽しめないとダメなんじゃないか、というのはおかしな意見だろうか?
 あと最後にはっきりと書いておくが、このエントリの原因になった方は、政治的意図をもって町山氏の発言を批判したのだ。パンフレットの文章からは政治的な偏りを読み取り、映画にはエンタテインメントとしての中庸を押し付ける、ずいぶんな態度ではないか。

 俺ははね、嫌韓の人から、「殺人の追憶」サイコーという声を聞いてみたい。「韓国人は嫌いだけど、韓国映画サイコーだよね」という声が聞きたい。

 そんなものは勝利でも何でもない。
 なぜならあの映画は、戒厳令下での殺人事件を描いたあの映画は、韓国の暗部を描いた悲劇だからだ。ここで挙げるべきは韓国の正義を掲げていながら優れた映画的要素を持つ反日映画だろう。その映画に対して、普段は映画を観ない嫌韓厨が「政治的には許せないけど、あの映画面白かったわー」と言うことを、id:toshi20氏は望んでいるわけだ。まあ、おれもそんなことが起こったら面白いと思う。
 以上で反証終わり、続けて別の方への同意の表明。

ルワンダ」においても、その政治的メッセージをそのまま受け取ることが良いことだとは、やっぱりぼくは思えない。繰り返しかもしれないけれども。例え、「正しいこと」であろうとも、全ての人にそのままの政治的メッセージを受け取らせるというのはファシズムであるから。まあ、screammachineさんと同じことを言ってるのかもしれないけれど。
id:VanDykeParks2:20060228

 同じことではないけど、結局同じことを違う表現で書いているだけなのかもしれない。ルワンダが伝えてくれたのは、政治的というよりは思想的な、誰かの言うとおりに隣近所で殺しあうのおかしくね?というメッセージだったと思う。
 ただそれが「隣近所で殺しあうのは正しい」と考えるひとにとっては、単なるエンタテインメントで済ますべきものだっただけで「政治的に正しいメッセージ」かどうかと問われると……いや、正しいに分類されちゃうんだろうな。それで「正しい」というだけで無批判に受け取る方がいらっしゃるのも理解しているつもり。いつも忘れちゃうけど。うそ、意図的にいないことにしてる。たまに思い出して批判したりしてな。
 説明不足はこっちの方で、それは前の方で反論させていただいたtoshi20氏とあわせて謝らせていただきたい。申し訳ない。