絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

サブカルチャーがポリティクスと結びつくことへの不信感

要約:政治的メッセージを含んだ作品から政治的メッセージを排除することは、バランス感覚ではなく単なる怠惰である。ホラー映画やアクション映画と同じく、政治映画も一ジャンルとして認め、その上で作品のよしあしをはかろう。
 

ぼくとしては、映画の政治的テーマをそんなに映画のエンターテイメント要素と直接的に結び付けていいのかと考える。なぜなら、サブカルチャーがポリティクスと結びつくことへの不信感というのは、ぬぐえないからである。
戦時下において、ディズニーのアニメーションは一種の軍需産業だったことを知っているだろうか。
(中略)
エンターテイメントと政治的メッセージを切り離さず、そのようなことを考慮にいれないで真に受けるということは、いついかなる時もファシズム的リスクが付きまとう。たとえ、「ルワンダ」であろうと、そういうこと考えずに鵜呑みにするのはどうだろうか、とやはりぼくは考えてしまうのだが。
id:VanDykeParks2:20060227:1141036462

 誤解を恐れずに書くと、おれはディズニー映画のファッショなところが大好きだ。そうじゃないところも大好きだけど、政治的なメッセージはそのまま受け取るべきだ。
 なぜなら、同じ頃に、戦意高揚映画を作れと言われたワーナー・ブラザーズが作った戦意が高揚しないアニメもまた、政治的偏向に疑問を提示する、という政治的意図によって作られた作品だからだ。
 おれはどちらのアニメにも良いところと悪いところがあると思うし、そのよしあしを政治的な偏向がどちらを向いているかで決めることが、バランス感覚だとは思わない。そんなものは今の日本が交戦状態ではないから言えるのだ。お前銃を突きつけられたときに平和万歳と叫べるか。
http://youtube.com/watch?v=06GP_Da2npU&search=bugs-bunny%20%20war
 戦意を高揚させないで、最後に「ワオ!女だ!」と叫ぶバッグス・バニーがかっこいいのは、それが戦時下に作られたアニメだからだ。平和ではないのに「みんな死んで静かになってしまった!」と叫ぶからかっこいいのだ。だから、戦時下に生まれた政治的な作品を、戦時下であるという意味を無視して見るのは、怠惰だと思うのだ。
 もちろん、そこで教科書的に「メッセージが!」と言うのはもっと野暮だ。政治的な映画におけるメッセージ性というのは、ホラー映画が怖いのと同じくらい描かれていなければいけないものだからだ。
 以前『ランド・オブ・ザ・デッド』という映画に対して書かれた、こんな文章がある。

「時代を映す鏡」って言ったって、面白いものもあれば、つまらないものもある。それなのに「時代を映す鏡だから素晴らしい」と言ってしまっては、まるで映画として面白くないみたいじゃないか。
(中略)
 ゾンビ映画を観るときは、現実のことなんて知らなくていいと思う。スクリーンに映るその事件に遭遇して、恐怖すればいいのだ。そして映画館を出て、周囲の風景が何かおぞましい正体を隠していることにさえ、気づけばいい。
 映画を観終わったあとで「あなたの心には何が残りましたか」なんて訊かれてもぼくには答えようがない。物語の中で描かれたものは全部残っている、だがそれがどうした?素晴らしい映画を観たからって、おれが素晴らしくなれるわけじゃない、こんな質問をされてすぐに答えが出せる奴は、きっと素晴らしい奴に違いない。
id:screammachine:20050711#p1

 こんな文章がある、っておれが書いたんだが。このときはこれが、ゾンビ映画なんだから、政治的なメッセージよりも、ゾンビが描かれているかどうかが問題なんじゃねえの?と思ったわけだ。これが政治的メッセージありきの映画で逆になってなぜ悪いのか。映画というものは、あるレベルを越えた部分では、自由に見られるべきだと思う。ジャンルとか、製作者側の意図する方向性を無視した自由が認められていいわけがない。
 ダッシュさんは真面目で頭が良すぎる。だから「政治的意図を観客全員が理解したうえで、見終わったあとに選択できる」という状況が頭に浮かばないのかもしれない。って浮かぶのかおれは。浮かぶ、観客全員が映画文法を理解したうえで、好きか嫌いかを選ぶことのできる世界。おれ、夢、見すぎか?