絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

思春期のしくみ。

 内田樹という方が書かれていた『不快という貨幣』を読んだ。
 これは、思春期のしくみではないかと思う。
 内田さんの意見を要約すると、こうだ。
 なぜニートになるのか。最近の子供は、具体的な作業を目にせず、帰宅した親の疲れた姿だけを見る。そして「辛い思いをすること=労働」だというふうに感じる。子供だって労働したい。だけど、近頃は家庭内で子供のできる簡単な労働がない。仕方なく、子供は、働かずに、わざと辛い思いをする。辛い思いをすること=労働だからだ。
 まったく、何て簡単な話だろう、対象が子供であるならば。
 ニートというのは、いい年をした若者であるはずだ。ならば彼らに「印象としての労働」と「じっさいの労働」の区別がつかないわけがない。いくらなんでも、いい年をした大人が、労働=苦痛=賃金とは思わないはずである。
 なぜなら労働と賃金は=で結ばれないからだ。労働によって生まれた何かが金銭と交換され、それから原価を引いたものが賃金になる。労働=苦痛であったとしても、苦痛=賃金とはならない。他者に忍耐を強いることで対価を得た気になれるのは、そこにかかるコストを考える必要のない世界に生きる者だけだ。
 それは誰か。子供である。
 子供には時間がたっぷりとある。子供の人間関係には金銭が発生しない。
 この提案は、思春期のしくみなら、しっくりとくるのだ。

はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。

 子供は子供なりに働いているのだ、と考えれば、その行動に対しての理解も深まる。これは子供と接する職業の人間にとって、役に立つ思考方法になるだろう。となってくると、内田氏が引用している本、つまり諏訪哲二氏の『オレ様化する子どもたち』が読みたくなってくる。以下に少し長いが引用、そして孫引きしよう。

諏訪さんが報告している中で印象深いのは「トイレで煙草を吸っているところをみつかった高校生が教師の目の前で煙草をもみ消しながら『吸ってねえよ』と主張する」事例と、「授業中に私語をしている生徒を注意すると『しゃべってねえよ』と主張する」事例であった。

「彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな『等価交換』にしたいと『思っている』。(・・・)しかしここで『商取引』を開始する立場にはないし、対等な『等価交換』が成立するはずがない。そこで自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを『なくす』か、できるだけ『小さくする』道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす『問題』の展開はこれと同じものになる(今もそうである)。」(諏訪哲二、『オレ様化する子どもたち』、中公新書ラクレ、2005年、83−4頁)

 まあとにかく、この問題が非モテに飛び火しないことを願うばかりである

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)