水の伝言系が身近にいたときの対処法、あるいは悲劇の回避法。
要約:「コップの下に「ありがとう」「ばかやろう」と書いた紙を置くと、きれいな結晶ときたない結晶ができる」ということを信じているひとが身近にいたら、科学的事実よりも先に、その思考法が危険であるということを教えよう。
何が先にあるのか。
おれはよく「あなたが一回占いを信じるたびに、テロでひとが一人死ぬと思ってください」というハードコアな考え方を主張する。これは冗談ではない。そこには多少の黒い笑いが含まれるけれど、ある域では本気の言葉なのだ。それはなぜか。
占いを信じるということは、科学でははかりしれない、神秘的な因果関係を信じるということだ、と、一般には思われている。懐疑的なひともそう思っている場合が多いが、これが大きな間違いだ。
占いを信じるということは、科学だって信じるということだ。「占星術は統計学だ」と言ってみたり、しまいには科学と宗教を融合させようとがんばったりもする。創造論も、水の伝言も、アポロが月に行っていないという主張も、全部「科学的に正しい」と主張するのが、占いを信じるということだ。
なぜなら彼らにとって「科学的に」という言葉は「すごく」や「マジで」と同じようなものだからだ。
その主張が科学的に間違っていれば批判される。あなたの信じていることは、これこれこういう理由で間違っていますよ、と忠告をもらう。これがまた、信じているひとには耐え難い。もしも、あなたがマンガを読んで「これマジで面白いんだって」なんて友達に薦めたときに、もし「マジってどのくらい?その定義は?本当に面白いのかどうか、議論しよう」と答えられたら、どんな気持ちがするだろうか。
彼らはバカでもなければ愚か者でもない。
まずは彼らの気持ちになって考えよう。どうすればそのような思考が形成されるのか?
きみにとって心地よい出来事が、他者から見てきみの得にならないとき、きみはその忠告を素直に受け入れて自らの判断を否定することができるだろうか。たとえばきみが社会通念を知らない者であると仮定する。そんなきみが、誰かを好きになって、その相手に愛の告白をした、そのとき、誰かに「その相手には配偶者がいるから『愛している』と告白するのは間違っているよ」と言われて、自らの気持ちをなかったことにできるだろうか?
感情は理性に先行する。ひとは、物事に出会ったら、はじめにその心地よさを測定する生き物だ。基準は快/不快。次にその正しさを、さまざまな証拠をつかって証明する。そのときに、感情に反する証拠が出てきたら? 懐疑的な思考法を知っているきみなら、その証拠を吟味しつつ、自らの感情に折り合いをつけることも可能だろう。だがそれを知らなかったら?あるいは知っていても「これだけは別」だと思えるほどの信条が楔のように脳へと食い込んでいるのだとしたら?
なるほどきみは懐疑論者だ。だが筆者の知っているだけでも、環境問題に関心がありながら人種差別をしたり、政治問題を詳しく語りながら性差別をしたり、あらゆる差別に反対しながら最近の若者を批判する懐疑論者は実在する。陰謀論にはまる心理を詳しく分析し批判しながら「民衆は愚かである」という「常識」を根拠とする文章を読んだこともある。
ひとは自分に心地よい言葉を選ぶとき、事実に反することに目をつぶる。おれも、君も、誰もがそういう性質を持っている。
だから「科学的に間違っている」から「良くない」と言うのは、無意味だ。そんなことは、わかっているからだ。
ではどうすればいいのか?
ここで冒頭の言葉に戻ろう。
「あなたが一回占いを信じるたびに、テロでひとが一人死ぬと思ってください」
この言葉に、科学的に正しい因果関係はない。占い一回を測定する基準はないし、テロで何人死ぬかは偶然で決まる。第一、これではテロ自体が宗教思想に限らず利権のために行われる場合はカウントできない。
それでもなお、私はこの言葉を捨て去れない。
問題は、ハードコアにひとを愛することができるか、ということだ。目の前の誰かが、ペテン師にダマされているときに、大きな声で「ばかぁ!」と言えるかどうか。きみがもし、大事なひとをなくしたくないのなら、そのひとに考えさせてみよう。それで相手が「自分にとって心地よければ嘘でもいい」という人生を歩むと決定したら?
知るか、それはつまりきみの言葉が「嘘」に負けただけだ。
おれたちの言葉が嘘に負けただけだ。