絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

メンヘルキャチャーは崖の上。

 ロープを使ってメンヘルが崖から落ちないように助けます。
 知り合いと飲んだら「DVD監督」→「劇場映画企画」→「ハリウッド映画」という俺の空メソッドの成り上がりを体現しそうだ、と言うので笑った。いやバカにして笑ったのではなくて、びっくりして笑ったのだ。世の中にはやりたいと思うことをやる奴がいる。ふつう人間はやりたいことと、やれることを分けて考える、けれど"やる奴"はその区別ができない、やりたいこと即できること。うらやましいかと聞かれても、なんとも答えようがない。「奴は頭がおかしいに違いない」とも言う。
 もし「マキノ雅弘の『次郎長三国志』が公開されているので行きたいんだよね」なんて言ったら、奴らはおれに落第点を下す。もう行っているのだ。話を聞く、時間を作る、行く。そういうものだ。

「ブッ殺す」「ブッ殺す」って、大口叩いて仲間と心をなぐさめあってるような負け犬どもとはわけが違うんだからな。
「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!
ジョジョ第五部、プロシュート兄貴のセリフより)

 先に説明しておくと、この日記は特定の誰かに向けて書かれたものではないし、何か深い意味を提示するものでもない。コメント欄において展開されるべきやりとりは『次郎長三国志』以外のものであっていいはずがなく、それですら観た人が麻草に「うらやましいだろう」と書くことよりほかにはない。
 ああ、表題はその"やる奴"との会話から。"やる奴"はメンヘルが苦手だ。メンヘルが何を考えて何をしているのかを聞くと、まったく共感できないらしい。自傷もODも奴らは体験している、だけど奴らは卒業してしまうから、いつまでも同じことを続けている者の気持ちに共感できない。しかも理解はできるから、解決策を提示したりする。そういうことじゃねえんだよ、今でもオリーブの木の元へ戻りたいか?そこが不毛の地であるかどうかは関係ないんだ。
 だがともに生きることはできる、きれいな水さえあればの話だけど。
 という前置きから話はえらいところへ飛ぶ。

対して、「つまらない」という言葉が使われる状況というのは、「自分の感情にフックしてこない」時ではないかと思う。人が何らかの情報を得た時に、必ずポジティブあるいはネガティブなリアクションが起こるとは限らない。「別に何とも思わない」ということは必ずあるだろう (だから「守備範囲」という例えが通用する)。そういう心境を端的に表すのが「つまらない」という言葉なのではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/kishiwadungeon/20060219#p2

 とてもいいことを書かれていらっしゃるので読むように。この方の意見はまっとうだ。ところが、世の中というのはひどいもので、中にはフックしないということを不快感と間違える方が、必ずいる。自分のミゾに引っかからないから悪い、というのを批評だと思っているタイプの感想家が、この世には存在するのだ。こういう者を観ると"やる奴"はカモだと思うらしい。ひどい話だがほんとうだ。世界を快と不快で分けてる奴ほど、だまされやすいと言うのだ。
 だとすれば、単に不快感をおぼえたから席を立つというのも、あまりオススメできた話ではない。つまり、世界を快と不快で分けて"やる奴"のカモにされたくないならば

  • 不快感をおぼえる。
    • それが不快であるという主張をする
      • 席を立つ
      • ネットで批判を書く
      • 悪口をふれまわる

の前に

  • 不快感をおぼえる。
    • それが不快なのか琴線に触れなかっただけなのかを見極める
      • 不快である
        • 不快感を表明する
      • 琴線に触れなかっただけ
      • 自分の琴線に触れないものを見てしまったことを反省する

とかせねばならんということになる。
 んでこのあと何十行も書いたのにブレーカーが落ちて全部消えた。どうでもいい、寝る。